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第249話 リスタート(5)

 翌朝、和樹は目覚ましアラームが鳴る前に目が覚めた。上半身だけ起こして、しばらくボーッとする。ボーッとした頭でも、隣に涼矢がいないことは分かっている。おはようの行先がないことに戸惑う。写真に向かって言ってみようかなどと思うが、それじゃまるで遺影に話しかけるみたいだと思ってやめる。写真、というキーワードだけが頭に残って、せっかくツーショット写真を撮ったのだから、プリントアウトして壁にでも貼っておこうか、と考えた。  それで狭い部屋の壁をぐるりと見回した。狭い部屋のこと、全面が空いた壁などない。積み重なった収納ケースとテレビ台と本棚兼用のワイヤーラックで埋もれた壁、ベランダに出る掃き出し窓の壁、玄関やキッチンのある壁、そして、今いるベッドが寄せられた壁。そうだとしても、大判なポスターは無理でも、スナップ写真の1枚ぐらいなら、どこにでも貼れる。  でも。  和樹は具体的に考え始めた。  壁に1枚、男2人のツーショット写真。それはやっぱり、誰か来た時に、変に思われるかな。額に入れてテレビの近くにでも置いたほうがいいか? それだったら、とっさの時には額を伏せるだけで済むし……。  そこまで考えて、その考えに愕然とした。隠す前提の恋人。それでもいいと涼矢は言うけれど、自分はそんなのは嫌だと、思っていたはずだった。まだ大学の友達には言えていない。ミヤちゃんにはバレてるみたいだけど、自分からそうと明かしたわけではない。無論、親にも言えていない。涼矢がどんどん"俺たちの味方"を増やしてくれているのに、俺ときたら。  また涼矢への劣等感が膨らみ始める。  分かってる、そんな劣等感は無意味だって。涼矢に言えば、どうしてそう勝ち負けみたいにしてしまうのかと、やれる時にやれるほうがやればいいことだと、真剣に怒るのだろう。その怒りすら、100%俺のためで。俺を想ってくれてるからで。そう、あいつはいつでも、俺のため、だ。俺が望めば何もかも差し出す。昨日のチンコがどうこう言ってたのだって、俺が言えば本当にやりかねないぐらいだ。愛の言葉を囁けと言えば、いつまででも語る勢いだし。そして、その見返りは求めない。 『いいんだ、俺が言いたかっただけだから。』  そんなことをさらっと言う。しかも、それは本心に違いない。 ――スナップ写真1枚、壁に飾ることを躊躇する俺が、そんな涼矢に、勝てるわけがない。  和樹は頭をくしゃくしゃと掻いて、ため息をひとつついてから、ベッドから降りた。  塾の小学生クラスは、18時始業だ。慣れてきたら30分程前からで構わないが、最初のうちは1時間前には来るようにと言われていた。説明会の際には、そういった早出の分の時給もきちんと支払うと説明され、遅刻や欠勤の際の給与計算のルールなども、細かに教えてもらっていた。それが労働者の当然の権利なのは知っているが、大学の友達のバイト事情などを聞く限りでは、実際にそのように明言してくれる職場は多くないのかもしれない。良い職場なのだろう、と思いつつ、そう思えばこそ、せっかくの細かな契約事項説明も、途中からは飽きてしまって話半分に流した。それも、「この職場なら"お任せ"で大丈夫だろう」と既に大きな信頼を寄せていたからに他ならない。  まだ実際の仕事も始まっていないというのに、そこまで信用してしまったのは、面接の時に顔を会わせた、塾の代表者の印象が良かったからだ。  履歴書の趣味の欄に「読書・音楽鑑賞」、特技の欄には「水泳・デスボイス」と書いたら、デスボイスに反応された。驚いたのは和樹のほうだった。それは住所の欄を間違えて書いてしまって、修正液で直した履歴書で、最後まで書くには書いたが、やはりミスが気になって、新たにもう一枚新しいものを書きなおしたはずだった。どうやら更にそれを取り違えて、どうせ間違えたのだからと、冗談半分にデスボイスのことを書いたほうを提出してしまったようだった。 「今、ここでできますか?」と言われて、和樹は涼矢に披露したデスボイスで、おぼろげに覚えていた、メロディとも言えないメロディに乗せて歌った。面接官は、笑いもせずにその場で「採用。」と言った。後で知ったことだが、その人が塾の代表の早坂だった。まさかと思って「今ので採用ですか。」と思わず聞き返したら、「必要な時に必要な声がすぐに出せる技術は、塾講師にとっては大きな武器です。」と淡々と返された。意味が理解できずに黙り込んでしまうと、彼は続けた。「こどもは大人を馬鹿にするものですが、自分たちには出せないような、低く大きな声を出す大人には途端にしおらしくなります。塾講師は躾が目的ではありませんし、時間に制限もあります。素早く最適な学習環境を整えるのに使える能力は重宝です。ただし乱発はいけません。こどもは順応性が高いので、すぐに慣れてしまって効果がなくなります。ここぞという時にだけ使ってください。」  こんな調子で、涼矢の前で披露した時とはまったく違う反応だったが、早坂はどこか涼矢に似た性格にも思えた。何より、涼矢は和樹のデスボイスを聞いて「俺だったら採用する」と言っていたではないか。実際は顔だとか言っていた気もするが……。顔だろうが声だろうが、採用されればこっちのものだ。とにかく、俺はこの人のもとで働いてみたい。……そんな風に思ったのだった。

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