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第250話 リスタート(6)
その場で、早坂と話し合い、大学の講義スケジュールとすりあわせて、月水の週2日のシフトに決まった。収入を考えると週3日は働きたいところだったが、仕方がない。それでも時給の安い他のバイトで長時間働くのと同程度の収入にはなるし、長期休み期間中の講習を受け持てばそれなりの金額が見込めると聞き、承諾した。順調に単位が取れていけば、来年度はもう少し融通が利かせられるはずだ。
希望通りに行かなかったのはシフトだけでなく、担当教科もだった。経済学部の和樹は、社会科を希望していた。しかし、理社の講師は足りているからと、国語科を担当することになったのだった。国語も苦手ではないが、宏樹が国語科の教員であることが逆にひっかかってしまった。
昔から同じ土俵で戦えば宏樹のほうが優秀だった。だから、習い事も部活も宏樹とは違うものばかり選んできた。真っ向勝負を挑んで兄に勝つことより、比較されないほうを重視した。大好きな兄だからこそ嫌いになりたくなかったし、そのほうがお互いを気兼ねなく応援できると思った。それがここにきて、同じ土俵に立たされるのか、と少しだけ暗い気持ちになった。もっとも、こちらは単なるバイトのなんちゃって講師、向こうは本物の教師だ。同じ土俵と思うこと自体がおこがましい。肩の力を抜いて、「せいぜい先生っぽいことを楽しんでやってやろうじゃないか」と決意した。
そんなことを思う一方で、和樹は大学で教職課程を取っていた。その分履修科目は増えるし、負担は大きくなるが、やはり心のどこかでは宏樹に憧れる気持ちがあったのかもしれない。教員にならないにしても、同じように教職課程を全うすることが、ひとつの自信につながる気がしていた。高校生の時には既に教師になりたいと目標を定め、初志貫徹した宏樹。自分もその時になれば、自然と「将来の希望」とやらが見えてくると思ったのに、ちっともそんなものは現れないまま迎えた進路決定の時期。宏樹に、なにげなく何故教師を目指したのかと聞いたことがある。体育会系の熱い男の言うことだ、さぞかし熱血な回答が返ってくるだろうと予想していたら、全然違うことを言い出した。
「俺は手先が不器用でモノづくりには向かない。スポーツは好きだが、それで食えるほどの能力はない。芸術的センスもない。カズみたいに見た目が良いわけでもない。室内に一日こもるのは苦手だから、会社で事務をやるのも、研究者にも向いてない。そうやって消去法で考えたら、学校の先生が残った。」
宏樹がそんな消極的な理由で職業を選んだことが意外で、この時のことは印象強く和樹の記憶に残っていた。そして、履修科目を決める時にふいに思い出し、「消去法で選んでいい仕事なら、自分にもできるかもしれない」という気持ちがよぎった。向いてないと思ったら途中で投げ出したっていいんだし。その程度の気持ちではあったが、間違いなく宏樹に背中を押されて、教職課程を履修することにしたのだった。
背中を押したのは宏樹だけでなく、涼矢もだった。弁護士という明確なゴールに向かって既に走り出している涼矢に、少しでも肩を並べたかった。
夕方、和樹は塾の入っている雑居ビルに向かった。塾はその3階から5階のフロアを使っている。1階はコンビニで、2階は別のテナントが入っているらしい。受付は3階にある。エレベーターもあるが、ビル最上階の10階に停止しているのを見て、待つことのほうが煩わしくて階段で上がった。
受付には事務担当の女性が座っていた。そう若くはない。
「あの、今日からこちらでバイトする、」と言いかけると、菊池という名札をつけたその女性が、少し困ったように眉を寄せた。
「都倉先生ですね。ご案内しますので、どうぞ。」菊池は立ち上がって、和樹についてくるように目配せで促した。まずは入口からは死角になっているフロア奥のエリアに行く。ロッカーが並んでいた。「こちらがロッカーです。日替わりでその日の担当講師が使います。個人用ではないので私物は置けません。コートや大きなバッグを入れる程度のものと考えてください。貴重品はデスクに鍵のかかる引出があるので、そこに入れるか、受付に預けてください。あ、それと。」菊池は和樹を見上げた。「学生さんでも、ここでは先生です。バイトと名乗らないようにしてください。」
「あっ、すみません。」さっき菊池が眉をひそめた理由が判明した。
「いえ。最初は慣れないと思いますけど、こどもたちにそう呼ばれているうちに、だんだん先生らしくなりますから。」そこで菊池はやっと笑顔を見せた。
「菊池さん。」背後から声が聞こえてきた。早坂だ。「都倉先生をお借りしたいんですが。まだ時間かかりそうですか?」都倉先生。生徒だけでなく、父親と同じ世代の早坂からも「先生」呼ばわりされるのか。そう思うと面はゆい。
「あとタイムカードのことを伝えれば、私のほうはもう。」
「ああ、じゃ、教えてあげてください。今、打刻してもらっていいから。」
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