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第251話 リスタート(7)
早坂が見ている前で、和樹はタイムレコーダーのありかと使い方を菊池から教わり、その場で実際に打刻してみた。スイミングスクールはタイムカード管理ではなかったから、初めての経験だ。「生徒さんはICカードで管理してるんですよ。入退室の時にピッとすると、自動的に保護者の方にメールが行くシステムで。でも、私たちのほうは昔ながらの方法なんです。」と菊池が笑った。
「生徒はお客様ですが、あなた方は違いますからね。お金のかけどころだって違います。」早坂がクールに言い放った。「では、いいですか? 都倉先生、ちょっと。」和樹は同じ3階にある教室に連れて行かれた。「ここが今日から教えていただく、小学6年生の教室です。時間になったら、入室してください。早過ぎても遅過ぎてもいけません。休憩時間の入りと出の時も同じくです。授業のキリが悪いからと延長しないように気を付けてください。」
「はい。」
「始業時間を覚えていますか?」
「6時、だと。」
「そうです。小学生は6時から40分ずつ、3コマの授業を受けます。終わるのは8時10分です。これは大手の進学塾と比較するととても短い時間です。中学受験の塾なら、小学生でも9時前後まで授業があるのが普通です。更に自習室で10時まで勉強して帰宅する子も珍しくありません。」
「小学生でそんなに夜遅くまで?」東京は中学受験に熱心だとは説明会の時にも聞いたが、そこまで加熱しているとは思っていなかった和樹だ。
「そうです。うちは受験指導は高校受験がメインで、小学生クラスは近隣の公立学校の授業についていくことを主眼にしているのはご存知ですよね。もちろん塾ですから学習指導はします。しかし、小学生の年頃の子ならば、自分の家で家族と夕食が摂れることのほうが大事だと、私は考えています。生徒はほとんどが地元の子ですから、終わってすぐにここを出れば8時半ぐらいには家に着けます。遅めですが、なんとか夕食と呼べる時間に食事ができそうでしょう? 5時にハンバーガーを食べてから塾に来て、休憩時間に慌ただしくコンビニおにぎりを押し込む、あるいは家で食べるにしても、10時も過ぎてから。小学生に、そういう生活が当たり前だと思わせたくないんですよ。」
「それはそうですよね。俺……いや、僕もそう思います。」言葉づかいに厳しそうだと思って言い直す。
「一人称は何でも構いません。それはあなたのアイデンティティですから。ただ、他の先生を呼ぶ時には先生をつけて呼んでください。私のことは教室長です。さっきの受付の女性は菊池さんです。土日の受付は別の人ですが、そちらはまた顔を会わせた時に。」
「はい。」アイデンティティと来たもんだ、と和樹は心の中で辟易した。これは面倒くさそうな人だぞ、と思う。涼矢とは異種の面倒くささだ。涼矢と似ているなどと一瞬でも思ったことを、涼矢に対して申し訳なく思った。
「決して中学受験を否定しているのではありません。実のところ、難関と言われる中学に入るような子は、世間の人が想像するような、勉強以外に能がない不健康なガリ勉くんはとても少ないのです。好奇心旺盛で、感受性も豊かな子がほとんどです。体力もあって、今私が批判したようなタフな生活をしていても、趣味やスポーツを楽しむ時間さえ作りだします。要領がいいというか、自分の心身の使い方が分かっている子たちなんですね。だから脳みその使い方も上手で、中受独特の難問にも打ち克てるのです。しかし、そういう子はごく一部です。私はね、そういう特別な子たちと比較され、とりこぼされる不安と戦っている、普通の家庭の普通の子たちを応援したくて、この塾をやっています。ご理解いただけますか。」
「はい。」どんな返事が正解かわからないまま、とりあえずそう相槌を打った。
「失礼なことを言いますが、都倉先生の大学は、いわゆる名門ではありませんよね。」
「え。あ、はい、そうですね。」
「その大学でしか学べない何かを学びたくて入りましたか?」
「い、いいえ。恥ずかしいですけど、なんとなくというか……。」
「そうでしょうね。面接の時の受け答えでもそう感じました。でも、今日からはあなたは先生です。小学生から見たら、あなたも立派な大人の1人なんです。都倉先生は色男、今風に言えばイケメンなので、おそらく人気が出るでしょう。でも、それに胡坐をかいて何も努力せずにいたら、こどもは、すぐに手の平を返しますよ。こどもは正直で残酷ですからね。どうぞ、がんばって彼らの憧れの大人になってあげてください。そのための努力は、必ずしも当のこどもによって報われるとは限りませんが、何らかの形で、あなたの糧となるはずです。」
その時、早めに到着した生徒が教室に入ってきた。彼はペコリと会釈して、彼の定位置らしい席に座ると、文庫本を出して読み始めた。
早坂はその子と二言三言会話をすると、教室を後にした。和樹も慌ててその後をついていく。それから、早坂は受付の背後に並んでいるデスクのひとつを示し、「ここを使ってください。デスクにある辞書や資料集は自由にお使いいただいて構いません。説明会の時にお話しした日報と進度表などはそのパソコンで入力してください。」と言った。
そのあたりのことは説明会の時に一通り聞いていたので、特に疑問に思うことはなかった。和樹はハイとうなずいてから、切りだした。「あの。」
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