996 / 1020
第996話 春嵐 (1)
涼矢は矢島を送り、次いで柳瀬を送り届けた。柳瀬家と涼矢の家は近い。車ならあっという間だ。しかし涼矢は自宅を通り過ぎて和樹の実家のあるマンションへと車を走らせる。
ハンドルを握る涼矢の手を見ながら、今年こそ免許を取ろうと和樹は思う。矢島も柳瀬も既に免許を取ったという。この町に暮らすならそれは当たり前のことだ。現に和樹がまだ免許を持っていないと言うと、二人とも驚いていた。東京に住んでいる限りは車は必須ではないかもしれないが、こうして帰省のたびに涼矢に送迎させるのはいささか心苦しい。たとえ当の涼矢が苦にしていなくても、だ。
「寝ていいぞ」
柳瀬を降ろしたあと、言葉数の減った和樹を見て眠くなったと思ったのか、涼矢が言った。
「いや、寝ないけど」
「疲れただろ? 酒も飲んでたし」
飲むには飲んだが、相当控えめにしたつもりだ。疲れていると言うなら、苦手な大人数の場で長時間過ごし、こうして遠回りして各所に車を走らせている涼矢のほうがずっと疲れているはずだ。そう言い返したい気持ちもあるものの、やっと二人きりになれたというのに、わざわざ険悪なムードにもしたくない。
「……深沢」
「は?」
「もう深沢なんだろ?」
「そうだけど、何、急に」
「今日、せっかくみんないたんだから言っちゃえばよかったのに。このたび深沢になりましたーって」
「高校の連中にまで広める必要ないよ。田崎のままでも郵便物だって届くし」
和樹の脳裏には、深沢と田崎の表札が二つ並んだ様子が浮かんだ。そこから芋づる式に、小嶋と久家の家のネームプレートも思い出された。
「でも、今後のためには慣れておいたほうがいいんじゃない? しばらくの間、俺が深沢くんって呼んでやろうか?」
「ピンと来ないね」
「だから、それじゃ困るだろって。病院とかでさ、呼ばれたときにキョトンとしちゃうだろ」
「……やだよ」
「なんでだよ」
「おまえは涼矢でいい。涼矢と呼べ」
「名前なんかただの識別記号だって言ってたの、おまえだろうが」
「でも、だめ」
「変なの」
「だって……」
涼矢はそこで言いよどんだ。
「まあ、分かってるけどね」
和樹のニヤニヤしている顔は、涼矢にもミラー越しに見える。
「何が分かるっての」
「そのうち俺も深沢になるんだから、ってことだろ?」
そのうち。いつか。五年後か十年後か、もっと先のことなのかは現時点では決まっていない。けれど二人の気が変わらなければ、あるいは法律が変わらない限りは、養子縁組をするだろう。そうなれば数ヶ月の差で先に生まれた涼矢が「父親」で、和樹もまた必然的に深沢の姓になる。
「それもあるけど」
涼矢は眼鏡を指先でくいっと押し上げた。和樹の目には眼鏡がズレていたようにも見えず、単に落ち着かない気持ちの表れかもしれない、と思った。運転するときだけたまにかけるという眼鏡姿は、和樹もまだ見慣れていない。久しぶりに短く切り揃えた髪型と相俟って、涼矢が見知らぬ人のように思える瞬間もあり、そのたびに一目惚れの如くにときめいたりもする。そのことは気恥ずかしくて涼矢には伝えられていないが。
「ほかに何かあるの」
「改めて聞かれると困る。今更新しい呼び名にする必要もないだろうってだけの話だよ。俺が和樹って呼んでるのに、そっちは深沢呼ばわりするのも変だろ」
「まあね」
和樹は手を伸ばして、涼矢のうなじに触れた。
「なっ」
急にそんなことをされて、涼矢は身をよじる。と言っても運転中のこと、そう大げさに動くわけにも行かない。何するんだよ、危ないだろう……と怒るより先に、和樹が囁く。
「涼矢」
「なんなんだよ」
「髪、結構切ったね」
和樹の指先が肌に触れるか触れないかの微妙な強さで、首筋をなぞる。
「だから、やめろって。危ないから」
「りょ、お、や、くーん」
今度はわざとらしいまでに甘ったるく間延びした声で、その名を呼ぶ。それから耳たぶに触れる。反応したら負けだとでも思ったのか、涼矢は無視を決め込んだ様子だ。それをいいことに、和樹の手は涼矢の肩を撫で、脇腹に触れ、やがて太腿にたどり着いた。
「俺、知ってるよ? 涼矢くんはエッチのときに涼矢って呼ばれるの、好きなんだよね? だから」
ニヤニヤする和樹と反比例するように、涼矢は険しい顔になる。
「なあ、そういうことしてると本当に事故るぞ」
「ごめんごめん、そう怒るなって」
「今日はずっと我慢してるんだから」
「何を」
「おまえに触ること」
「ほーん」
和樹は太腿の手をよけず、それどころか悪乗りして更に股間近くへと伸ばした。
「ざけんなっつの」
涼矢は低い声で言ったかと思うと、する必要のない車線変更をした。和樹の家まではまだしばらくある。それなのに車は端に寄っていくと同時に緩やかにスピードを落とし、路肩に停車した。
「ごめんって」
和樹は半笑いで謝るが、涼矢の視線は冷たいままだ。和樹もさすがにしゅんとうなだれ、小さくなった。涼矢がひとつ溜息をつく。愛想を尽かされたかと焦りつつも、たかがこんな冗談でと思う気持ちも拭いきれない。
ともだちにシェアしよう!