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第997話 春嵐 (2)
さてどうしたものかとフォローの言葉を考えていると、涼矢が口を開いた。
「おまえは、平気なんだな」
「な、何が」
「今日、会っただろう、あの人に」
予想外のセリフに、和樹は戸惑う。「あの人」が誰を指しているのかはすぐに分かった。香椎文彦のことだろう。だが、今ここで彼の話題を出す涼矢の意図が分からない。下手なことを言って更に逆撫でしては元も子もない。和樹はただ、「あの人って、香椎先輩……だよな?」と遠慮がちに確かめるに留めた。そうだとも違うとも言わずに、涼矢は「偶然って怖いな」と呟いた。
遠い目をする涼矢が、香椎と過ごした過去に連れ戻されてしまいそうで、和樹は不安になる。それをかき消すために今度は無闇に饒舌になった。
「そうは言っても、こっちで偶然会うのは、まあ、分かるよ。遊ぶとこだって限られてるし、どこに行っても知り合いの一人や二人に会うのはしょうがない。でも、東京で、よりによってうちのサークルの先輩だってのにはマジでびっくりしたよなあ。あんなにたくさん人がいる東京でそんな偶然ある?って感じ。しかもお互い幽霊部員で、めったにサークルには顔も出さないのに」
同感の意味のつもりか、涼矢が頷く。
「ていうか、普通に自己紹介したぐらいじゃ単なるサークルの先輩後輩で終わってたわけだよな。出身高校の話なんかしないし。あ、でも、同郷だって分かったら何高校だった?なんて聞くぐらいはするか。まあ、それ聞いても、まさか涼矢と繋がりがあるとは思わ……」
和樹は自分一人がしゃべっていることに気づくと途端に恥ずかしくなり、黙った。話の途中で不自然に黙ってしまったというのに、涼矢は依然として何も言わない。
どれほどの時間が経過しただろうか。沈黙を破ったのは涼矢だった。
「俺、本当にあの人が好きだったんだよ。でも、過去の話だ。正直、顔も忘れてた」
「ちょっとちょっと、元彼の話やめろよな」
和樹は努めて明るく茶々を入れる。
「そんなんじゃない」
「マジな顔すんなよ。怖えよ」
和樹の茶化すような口調の言葉に迎合するでもなく、かといって邪魔にするでもなく、涼矢は淡々と話を進めた。
「俺は川島綾乃が嫌いだった。今はもうどうでもいいけど、どうでもいいのは会う機会がないからで、もし今日みたいな集まりに彼女が来るなら参加しないし、和樹にも参加してもらいたくないと思う」
「今更何も起きねえよ」
「そうなんだろうな。でも、嫌なものは嫌だ。おまえが平気な顔して彼女と笑って話してたりしたら腹立つ。どうでもいいから平気な顔していられるんだと言われても、やっぱりむかつく」
「つまり、俺が香椎先輩に嫉妬しないのがむかつくって話?」
「そこまでは……いや、そうか。そういうことだよな」
最後は自分で自分に言い聞かせるように涼矢が言う。
「涼矢は、俺が平気だと思ってんの?」
「違うのか?」
「気にならないわけねえだろ。いくら過去の話で、忘れかけてたと言っても、だっておまえ」
あの人のせいで入水自殺まで考えたんだろう?――とは、言葉にできなかった。言ったのは他でもない涼矢だった。
「俺があの人のせいで死のうとした、とか思ってる?」
「……別に香椎さんのせいだとは思ってねえけど、あの人が男だったから、ではあるんだろ?」
「覚えててくれたんだ、その話」
「忘れるかよ」
「そっか」
涼矢は何故かホッとしたような表情を浮かべた。
「香椎さんがおまえの話するのを見てると嫉妬もするし、イラッとするよ。けど、おまえのその……昔の件があの人のせいじゃないことぐらいは分かる。……えっと、うまく言えないけど、とにかく俺は、香椎さんがおまえにしたことにむかつくってより、しなかったことに感謝する気持ちのほうが大きいんだ」
「しなかったこと?」
「おまえもあの人も中坊で、何もできなかったんだろ。お互い好きだとも言えなくて、ただ絵描いたり、描いた絵を見たり、そんなことだけして、そのうち向こうが卒業して、それっきり。けど、何もなくてもおまえは傷ついて、苦しんだ。たぶん……これは本当に想像でしかないけど、あの人も似たようなもんだったと思う。二人ともそれぞれ傷ついてて、そういう気持ちに相手を巻き込みたくなくて、だから何もしなかった。それって優しさだったんだと思う。そこでどちらかが告白しても、きっとその頃のおまえらは、上手くいかなかったよ。二人ともウジウジグチャグチャ考えて、落ち込んで、結果的に傷つけあっておしまい。ま、これは俺の願望かもしれないけどな」
「ウジウジグチャグチャ……」
「そこリピートすんなよ」
和樹は笑うが、涼矢はきょとんとしている。
「それが和樹の願望?」
「いや、だから、おまえみたいな奴と上手くやれるのは俺だけってこと」
こどもをあやすように、和樹は涼矢の頭をポンポンと軽く叩いた。涼矢がようやく笑みを浮かべる。
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