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第998話 春嵐 (3)
今まで出会ったすべての人が今の自分を形成している。そんな和樹の弁を借りるなら、香椎もまた今の俺を作った一人なのだ。そして和樹は、そういう「俺」が好きなのだとも、思っていてくれるのだろう。
「つまり俺様の価値が分かるための踏み台に過ぎなかったわけですよ、香椎パイセンなんてのは」
「それはちょっとひどい言い方だと思うけど」
苦笑しながらも、一理ある、と涼矢は思う。もし、中学時代に出会ったのが香椎ではなく和樹だったなら、俺は和樹を好きになっただろうか。――たぶんならなかった。あの頃の俺はまだ渉先生のショックから立ち直れていなかったし、自分のことが好きでもなくて、コンプレックスを刺激するキラキラした「クラスの人気者」はそれだけで敬遠の対象だった。好きになるどころか、天敵のように思ったかもしれない。渉先生と出会って、香椎と出会って、傷ついて、抗って、その先で和樹と出会ったから、好きになった。
「俺は……こんなこと言うとまたおまえにむかつかれるかもしんないけど、やっぱ、綾乃とか、その前に付き合ってた子たちがいたから、おまえを好きになったと思うし」
「和樹らしい」
「へ?」
「今まで出会った人みんながいて今の自分が作られてるって、前も言ってたから」
「そうだっけ」
和樹はそう言ってとぼけてはみせたものの、しっかりと覚えていた。今でもそう思っているのは事実だけれど、いざ涼矢の口から聞かされると恥ずかしい。
「まあ、それはいいとして」涼矢もまた語り過ぎた気がして話を変えた。いいのかよ、という和樹のツッコミをスルーし、「とにかく運転中に妙なことをするな」と釘を刺す。
「はいはい、分かりましたよ」
和樹はシートベトを締め直し、出発を待った。涼矢は再びハンドルを握る……と思いきや、ぐっと体をひねって和樹に顔を寄せ、「でも、これだけさせて」と言い、キスをした。
不意打ちに驚く和樹を尻目に、涼矢は平然と元の姿勢に戻り、アクセルを踏む。
ずるい、と和樹は思う。思うが、悪い気分ではなかった。
数日後、和樹は一人で東京に戻った。涼矢もそれに同行して、残りの春休みを和樹のアパートで過ごすこともできないではなかったが、各種の名義変更の手続きもあり、このタイミングで自宅を離れるのは気分が落ち着かない。もっとも、涼矢がどこかそわそわしていると指摘したのは和樹のほうだった。
名前なんて個人を識別できればどうでもいい。そう言っていた涼矢だが、いざひとつひとつの名前を変えていくとなると、自分が自分でなくなっていくような錯覚に陥った。数年先には和樹にもこんな思いをさせるのかと思うと申し訳ない気にもなった。
「な? おまえは名前なんてたかが記号とか言ってたけどさ、変わるとなったらやっぱそれなりにオオゴトだったろ? 妙な気持ちになって当たり前」
東京に戻る前日、和樹はあっけらかんと言った。
「今のうちでまだマシだったのかもしれないけど。社会人になってから苗字変えるのはもっと大変だろうし……」
涼矢はちらりと和樹の表情を窺う。
「まあね。ま、俺が次に名前変わるってときは、めでたい気持ちなんだろうから」
「めでたい?」
「だって」和樹は赤面し、空咳をした。「結婚つか、そういうアレなわけだろ、そのときは」
「……」
「手続きとかは面倒くさいかもだけど、その、嬉しさが勝つっていうか」
「ふ」
涼矢は小さく笑った。
「なんだよ、何笑ってんだよ」
「いや、それなら良かった、って」涼矢は和樹の頬を、愛しそうに手のひらで包む。「そういう風に思ってもらえるように頑張る」
「おう、是非とも頑張ってくれたまえ」照れ隠しのように和樹も笑う。「俺も頑張るから」
何をどう頑張ればいいのか、正直分からないけれど。和樹はそんなことを思う。「このまま真面目に二人でやって、大丈夫ってところを見せていくしかないっつうか」。矢島のセリフが思い浮かんだ。そう、結局のところ、それしかないのだろう。真面目に頑張る。そして、それは涼矢が今までしてきたことだ。たった一人で。これからは涼矢だけに頑張らせない。
東京のアパートに戻った和樹は、そんな会話を思い出しては、溜息をつく。
一人で頑張らせない。そう心に誓った矢先だが、この帰省の間にあふれんばかりにポストに詰まっていた郵便物はどれも就活がらみだ。大学からのガイダンスの案内、企業説明会のダイレクトメール、それから就活用のスーツや靴のチラシ。
涼矢はいわゆる就職活動はせず、司法試験準備に集中する覚悟を決めたようだ。自分もさすがに教員に絞るかどうかを決めねばなるまい。頑張ると言ったら、まずはこういった足元のことからやるべきなのだろう。頭では分かっていても気持ちが着いていかない。
和樹はふと久家の柔和な顔を思い出し、メッセージを送った。就職のことで相談したいから電話してもいいか。そんな内容だ。だが、久家からは会って話しましょうと返ってきた。久しぶりに顔も見たいし、という文言に、和樹も共感した。受験の神様と慕われた久家の笑顔を見たら、それだけで安心できる気がした。今になって、イケメンでもない「おじさん」の久家があんなにも女子生徒にちやほやされていた理由が分かる。
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