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第999話 春嵐 (4)

 久家との約束の日、和樹は移動の電車の中で暇つぶしにスマホを眺めていた。  久家に都合を尋ねたとき、「この日なら小嶋も休みなのだけれど同席してもいいかな」、そう言われて少々緊張しつつも承諾した。決して会いたくないわけではない。むしろ、この二人とはいつかじっくり膝を付き合わせて話がしてみたいと思っていた。何しろ二〇年以上も歳月を重ねてきた同性カップルの大先輩なのだから。だが、久家と違い気難しい印象の小嶋を前にして、立ち入った話を聞ける気がしない。もちろん今日の目的は就職相談であって恋愛談義ではないが、自分の就職問題はどうしたって恋愛事情が絡むのだ。 ――久家先生たちの若い頃は、今以上に偏見もあって大変だったとは思うけど、でも、俺らみたいに遠距離恋愛してたわけじゃなさそうだよなあ。  久家自身から聞いた覚えがある。自分は淋しがり屋だから遠距離は無理なんだと。これに関しては和樹は今でも理解しきれない。  恋なんて、すべての条件をクリアしているのを確認してからスタートできるものではない。そんな余裕もないままに感情を持って行かれるから、ときとして恋は「落ちるもの」として表現されるんじゃないのか。遠距離になるからといって、それならやめておくか、なんて簡単に割り切れないだろう。  和樹はつらつらとそんなことを考えながら、スマホに表示された現在時刻を確認した。同じ画面には当然のように今日の日付もある。  三月二八日。  見覚えのある日付だった。何の日だっけと考えていると画像管理アプリの通知が来て答えを知る。過去の同じ日に撮影した画像を自動的に表示する機能だ。  二年前の今日、とキャプションのついた画像には、まだろくに家具も置かれていないアパートの壁や床が写っていた。この「映えない」画像群は、退去の際のトラブルに備えて入居時の写真を撮っておくといい、と宏樹に勧められて撮影しておいたものだ。  そうか。俺が東京に引っ越した日か。  東京暮らしの年月は、そのまま遠距離恋愛の期間でもある。告白から上京までの間はほんの半月ほどしかなかったのだから、涼矢との交際期間とイコールだと言ってもいい。    和樹はそう思うと同時に、上京する直前の涼矢との会話を思い出した。引っ越しを目前に控えたタイミングで付き合いだして、一緒にいられる時間を一日でも惜しんでいた和樹に、涼矢が明日は家族と過ごせと言った。それを冷たいと責めると、涼矢は言ったのだ。 ――一日二日会えなくて淋しい思いをしたとして、それって一ヶ月で別れるなら大きな問題かもしれないけど、十年一緒にいることができたなら、記憶にも残らない誤差の範囲だと思う。  十年を待つまでもなく、その通りになった。この二年間、気軽に会えない距離にいて、淋しくなかったわけでもない。今だって淋しい。でも、ここまで来られた。  和樹が下車したのは武蔵境の駅だ。久家と小嶋の住む家の最寄り駅だ。我が家に来ませんか。久家がそう誘ってくれた。彼らの家には小嶋の母親の葬儀後に一度訪問したが、そのときは涼矢の運転する車だったから、駅からの道のりは知らない。地図アプリがあるから大丈夫だと言う和樹に、駅まで迎えに行きますよ、と久家は言ってくれた。 「駅からはそんなに遠くないけど、分かりにくいんですよ、住宅街でね」  改札口を出ると、久家が既に待機していた。その久家が案内する道すがらにそんな説明を始める。 「都内は入り組んだ狭い道が多いですよね。俺、こっち来た最初の頃、駅から自分の家に帰るまでの間に迷うこともありました。まあ、元々方向音痴のせいもあるんですけど」 「方向音痴なんですか? 意外だなあ。しっかりしてそうなのに」 「全然しっかりしてないですよ」 「じゃあ、一人暮らしでしっかりしたのかな」 「それならいいですけど。あ、そうそう、ちょうど今日なんです。俺が東京に引っ越してきた日」 「へえ、そうなんだ?」 「久家先生はずっと東京ですか」 「うん、都下だけどね。あと、先生はやめましょう。僕はもう、単なる年上の友人のつもりでいるから」 「あ、はい」 「小嶋もね」 「……はい」 「呼びづらい?」  和樹の顔色を見て、久家が笑う。久家と森川は一緒に居酒屋に行ったこともあるし、そのときも理由は違えど先生呼びは控えるルールだったから、そう抵抗はない。だが、小嶋や早坂に関してはそこまでカジュアルに話したこともなく、心理的距離がある。 「が、頑張ります」 「ははっ」  そんなやりとりをしているうちに、やがて二人は小嶋の待つ彼らの家に着いた。  久々に会う小嶋は、最後に見たときよりも元気そうに見えた。正直、外でなく自宅に招かれたのは小嶋の体調も考慮されているのではないかと思っていた和樹は、血色のいい小嶋に安堵した。 「やあ、久しぶり。元気そうだね」  第一声も心なしか穏やかだ。それともオンとオフの場の違いなのだろうか。 「はい、元気だけが取り柄なんで。小嶋先……小嶋さんは体調のほうは」 「ああ、見ての通り、だいぶいい」

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