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第1000話 春嵐 (5)
小嶋は腰をかがめてスリッパを出した。恐縮しながら和樹がそれを履く。
「あれ、背、伸びました?」
和樹が思わずそう言ってしまったのは、背筋を伸ばした小嶋と並んだときだ。
「伸びちゃいないよ、こどもじゃないんだから」小嶋が笑った。「でも、猫背が改善したかもしれないな」
「体幹に筋肉がついたんですかね」
「そうだといいけど。元通りとは行かないまでも、少しずつ体を動かすようにはしていて、ようやく最近一時間ぐらいのウォーキングならこなせるようになったんだよ。……にしても、よく気づいたね、俺の背の高さまで」
そう言って笑う小嶋は背筋は伸びても肩や胸板はまだ薄く、もらったスーツを返したところでこの細さではスーツの中で体が泳いでしまうことだろう。和樹はぶしつけなことを言ってしまったのではないかと後悔したが後の祭りで、さりげなく話題を変えることしかできなかった。
「俺も最近運動不足だから、何かしなきゃと思ってるんですよ」
「ずっとスポーツやってると、体を動かさないでいるというのはどうにも気持ちが悪いものだよね」
「分かります、そうなんです」
リビングに通され、ダイニングテーブルに着席すると、久家がお茶を出してきた。
「僕には分からない境地だね」
会話を聞いていたらしい久家が、すねた口調で言う。
「久家さんはそのままでいいですよ」
「調子いいなあ、都倉くんは。そうやって自分はちゃっかり鍛えてますます格好よくなるつもりでしょ。それ以上モテてどうするんですか」
「モテ具合で言ったら、久家さんがいちばんモテるじゃないですか。チョコだっていちばんもらってたし」
「バレンタインチョコのことですか。あれはモテてるのとは違うでしょ。合格祈願のお賽銭みたいなものです」
「お賽銭」
和樹は思わず吹き出しそうになる。その通りだと思ってしまったからだ。正直、久家にチョコを渡す女の子たちが久家と恋愛関係になりたがっているとは思えない。――明生が俺に向けていたような、淡い憧れですらないだろう。
「一応庇ってやると、塾の生徒を別にしても実際久家はかなりモテるんだよ」
小嶋が横からそんなことを言い出した。
「ちょっと、変なこと言わないでよ、ヒデさん」
焦る久家を横目に、却って面白がるように小嶋は続ける。
「若い頃は特に、男にも女にもよくモテて」
「久家さんは優しいし、心が許せるっていうか、何でも受け止めてくれそうな感じがありますもんね」
「なるほど、そこか」
自分で言い出しておきながら、今更知ったかのように小嶋が言う。
「現に俺が今日ここにお邪魔することになったのも、久家さんに話を聞いてもらいたかったからだし」
和樹が言うと、二人して少しだけ神妙な顔になる。
「あ、でも、そんな重い話じゃないんです」慌てて和樹は取り繕った。「一人で考えてもぐるぐるしちゃうばかりなんで、別視点からのアドバイスが伺えたらな、っていう」
「都倉くんのいいところは、そういう素直さだよね」
久家はまたいつものニコニコ顔に戻り、小嶋がその久家を見て満足気に頷く。ふいに和樹は思った。――小嶋さんは本当に久家さんのことが好きなのだ。
「じゃあ、そろそろ本題の話をしましょうか」久家は和樹の正面、小嶋はその隣の席だ。面接でも受けているような気分になるが、それに気づいたのか、久家が菓子を勧めてきた。「これ、僕の実家の近くにある和菓子屋さんのでね、昔から好物でときどき取り寄せてるんだ。良かったらどうぞ」
「あ」
和樹が呟く。
「うん? どうかした? あんこ苦手だっけ?」
「すみません、俺、手土産持ってくるの忘れました」
「なんだ、いいよ、そんなの気にしないでよ」
「ちゃんと用意したんですよ。それを玄関先に忘れてきちゃったみたいです」
弁解しながら、和樹は忘れてきてよかったかもしれないと思い始めていた。何故なら自分が用意したのもまた、あんこを使った和菓子だったからだ。しかも明生に教えてもらった例のどら焼きだ。塾からも近い店の品など小嶋たちには珍しくともなんともないだろう。
「本当にそういう気遣いはいいから」
久家が言う。
「都倉くんは、意外とそういうことに気を遣うよね」
小嶋も言う。
「いや、全然です。俺、この間まで帰省してたんですけど、親にも気が利かないって怒られました。高級スーツもらったのにお礼もろくにしてないと話したら……」
「捨てようとしてた物を押しつけたんだ。お礼なんて受け取れないよ」
そう言ったのは小嶋だ。
「ええ、まあ、俺もそう説明はしたんですけど」
「上の人に何かしてもらって嬉しいと思ったら、きみが上の立場になったとき、下の子に返してあげればいいんだよ。何でも順繰りなんだから」
久家はそう言って自分が勧めた菓子を取り、包装紙を剥いだ。
「はい」
和樹は素直に返事をし、同じように菓子を取る。個包装の紙を取ると、栗まんじゅうのような菓子が出てきた。艶やかで丸みを帯びたそれは、どこか久家のようだと思う。
「教員志望だっけ」
まずは久家が切り出した。
「はい。でも、それだけには絞りきれなくて」
「何が何でも教師になりたいわけじゃないんだ?」
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