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第1001話 春嵐 (6)

「はい、正直、そうです。かと言って教職課程は教育実習もあるし、一般企業の就活と両立するのはスケジュール的にも厳しいんですよね。そんなこと言ってるうちにどっちも中途半端になりそうで、不安と言うか」 「今の就活はスタートが早いから大変だよね。昔と違って面接試験でさえオンラインでやるところも多いし、便利と言えば便利だけど、工夫すれば一日に何社も受けられるでしょう? 僕なんかはそういうのも考え物だと思うんだよね。最初に第一志望にすんなり通ればいいけど、ひとつふたつ内定が出ても、もっといいところがあるかも、って際限なく夢の企業を探しちゃう」 「久家先生、やっぱり就活のこともよくご存じなんですね」  無意識に「先生」と呼んでしまう和樹だった。 「詳しいと言えるほどでもないよ。高卒で働く子もいるから、それなりに世の中の動向はチェックしてるけど、高卒の市場と大卒のそれとはまた少し事情が違うしね」 「久家さんと小嶋さんは、大学出て一度は一般企業にお勤めされてたんですよね?」 「うん。年は違うけど同じ会社の同期なんだ。僕は四大で、彼と早坂は院卒で」 「院卒ですか。じゃあ、何か専門的な?」  その問いには小嶋が答えた。 「ああ、主に薬品を取り扱う化学メーカーの研究所にいた。俺も早坂も薬学系だったから」 「薬剤師ですか?」 「早坂は有資格者だったかな。俺は違うけど。二人とも薬剤師として働いたことはない」 「そこから塾って、結構離れた業界ですよね」 「そうだね」小嶋は茶を一口すする。「まあ、俺は業界がどうと言うよりも、早坂と仕事がしてみたかったんだ。塾だろうがスーパーマーケットだろうが、早坂に誘われればやってたと思う」 「早坂先生のこと、すごく信頼してるんですね」 「信頼……そうだな、信頼と言ってもいいのかな。俺としてはそんなご大層なもんじゃなくて、ただ、早坂のそばにいれば飽きないだろうと思った」 「ヒデさん、それ、全然アドバイスになってないよ」久家は呆れた声で言い、和樹のほうを向き直った。「僕らが働いていたのは業界最大手の上場企業で、待遇も良かった。独立起業なんかしないで、おとなしく定年まで勤め上げて退職金もらったほうが賢い選択だったんだろうと今でも思う」 「それなのに何故?」  和樹の問いに、久家はにっこりと笑って答えた。 「早坂くんのやることに興味があった」  それを聞いて小嶋が笑う。 「同じじゃないか」 「そう、同じ。結局のところ、就職も転職もタイミングだからねえ」 「それこそ都倉くんへのアドバイスになってないよ」    ひとしきり笑ったあとになって久家が言う。 「……というのも本当だけど、僕の場合はもう一つ、希望があってね。誰かに雇われるんじゃなくて、自分がトップになりたかったんだ」  久家は語った。久家の親の教育方針は一国一城の主たれ、というものだったこと。どんな大企業でも勤め人である限りは肩身が狭かったこと。ただし、それ以外のことについては各自の個性を重んじる家庭で、同性愛者であると伝えても特に驚かれもしなかったこと――。  淡々と話す久家だが、最後の下りで和樹の頭から就職問題が一瞬にして吹き飛んだ。言われてみれば葬儀のあと、涼矢とここに来たときにもそんな話を聞いたかもしれない。ただ当時は状況が状況だったので、根掘り葉掘り聞くわけにも行かなかった。 「驚かれなかったんですか?」 「うん。全然。僕は兄弟が多いんだけど、ずっと独身というのもいるし、離婚再婚を繰り返してるのもいる。でも、そんなことは個人の問題だから、それぞれ好きにしたらいいって感じなんだよね。そんなだから、身内へのカミングアウトで悩んだことは一度もない」  なんて素敵な家族なんだろうと和樹は羨ましく思う。うちもそうだったら良かったのに、と思ってしまう。 「そんな環境ですくすくと育っていたもんだから、俺の家とのつきあいは余計大変だったと思うよ。都倉くんも葬式で察したかもしれないが、うちの親族は久家の家とは正反対で、偏見の塊だからね」  確かにそうだった。小嶋の母親の葬儀の場で、久家が小嶋の妹だという女性から辛辣な言葉を投げられていたのを覚えている。 「今も……?」  和樹はおずおずと尋ねた。 「ああ、今も」小嶋は言う。「でも、妹はだいぶ軟化したかな。それだって両親が死んで、ようやくだ」  和樹は久家と小嶋の顔を見比べた。どちらも五十歳前後に見える。いや、小嶋はもう少し上、五十代半ばといったところか。どちらにしても正確な年齢は知らないが、二十年以上も一緒にいてようやく「最近」、「妹だけ」が理解を示すようになったという事実は、和樹が将来を悲観するのに充分な根拠だった。 「あの、こんなこと聞くの、失礼だとは思うんですけど」和樹は言う。「辛くなかったですか。親にも理解してもらえない。職場でパートナーについて本当のことが言えない。そういう……」  その先は言葉に詰まってしまう。 「だから、ご褒美だと思ったよ」  答えたのは久家だ。この文脈の「ご褒美」の単語が飲み込めず、和樹は小首をかしげた。

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