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第1002話 春嵐 (7)

「ヒデさんのお母さんが年取って弱って、いよいよ一人で生活するのが難しくなった頃はね、ヒデさんはヒデさんで大きな手術もして、自分自身の身の回りのことをするので精一杯だった。妹さんは離れて住んでいて、改選の選挙を控えていた。どう考えても僕が介護するのがいちばん効率的でね。でも、誰も言わないんだよ、僕に世話しろとは。そりゃあそうだよね、お母さんには蛇蝎の如く嫌われていたんだから。でも、隣にいて、見ない振りをするのは僕も気が進まない。もういいや、どうせ相手は年寄りなんだし、どんなに嫌われてもせいぜい悪口が関の山なんだから、好きにやらせてもらおうと決めてね、誰の意見も聞かずに世話を焼くことしたの」  当時を思い出しているのだろうか。久家は優しい目で遠くを見ている。それはどこか葬儀の日の久家と重なった。換気扇の下で煙草の煙を吐いていた姿だ。そう言えば、あの日部屋の至るところに積まれていた大人用紙おむつは、もう影も形もない。生さぬ仲、しかも相当に嫌われていた相手に、どうしてそこまで優しく接することができるのか。 「そんなに嫌われていたのに、優しいですね。俺だったら無理かも」 「優しさじゃないですよ」久家は苦笑する。「もちろん、人として、困っている人がいれば手助けしたいとは思います。でも、僕はともかく、実の子のヒデさんまで愚弄するような人を、なんの下心もなく愛情込めてお世話するなんてこと、さすがにできやしませんよ」 「でも……」 「僕は僕のためにしただけ。隣に住んでいながら見殺しにした、そんな風に言われたくなかっただけです。僕たちのことをよく思っていない人にほんの少しでも口実を与えたくなかった。自分自身に対してもそう。あのときああすればよかった、こうすればよかったと後悔したくなかった。他の誰よりもやった、やれるだけのことをやった、と胸を張りたかった。それでも文句を言う人がいたら、出るとこ出て戦ったっていい。絶対勝てる、そのぐらいのことをやり遂げたんだと思いたかった。……要するに我欲ですよ。お母さんのためじゃない」 「と、彼は言うんだけどね」  それまで黙って聞いていた小嶋が割り込んでくる。 「最初はそうだったかもしれないが、我欲だけでできることじゃない。俺も体調が安定してからはおふくろの世話をするようになったけど、とんでもない重労働だったよ。そのくせ口だけは達者で文句ばかり、ありがとうの一言もない年寄りを相手にするのは、精神的にも大変だった」 「僕には時々言ってくれたよ、ありがとうって。確かに、あの一言は大きかったねえ」久家は和樹を見て、より一層口角を上げて笑った。「だから、それがご褒美だなあって思ったんだよ。お母さん、だんだん頭がうまく働かなくなって、遂には家族の顔も分からなくなった。それって実の子供にとってはとても辛いことだったと思うけど、僕を嫌っていたという記憶も失ったおかげで、僕はお母さんにありがとうって言ってもらえるようになった。僕が体を拭いてあげると気持ちいいって喜んでくれたりしてね、僕たち、最後はとても仲良くなったんだ。きれいごとを言うようだけど、お母さんの介護を思う存分できて良かったと思ってる。少なくとも僕にとっては悪いことばかりじゃなかった」  久家はそこまで言うと茶を飲み、菓子を頬張った。小嶋は無言だ。無言だが、少し音がする。貧乏揺すりをしているらしく、そのせいで椅子が軋む音だ。和樹の印象では小嶋はいつも冷静で、そんな風に落ち着きがなくなるのを見たことがなかったから意外に感じた。やはりパートナーである久家や、母親のこととなると違うのだろうか。それまで遙か先を行く大先輩のように見えていた小嶋が、急に身近な存在に思えてくる。 「あのう」和樹が口を開いた。何?と言いたげな二人の視線が和樹に集まる。「そうなる前……その、お二人の関係を話して反対されたとき、ここを出て遠いところで二人で暮らそうって話にはならなかったんですか」  和樹の言葉に、久家と小嶋は顔を見合わせた。先に答えたのは小嶋だ。 「ならなかったね。こちらの非でもないのに、敵前逃亡はしたくなかったというところかな。大の男二人で働いていて金がなかったわけでもないし、出て行こうと思えばいつでも出て行ける、そう思っているうちに今になってしまった」  小嶋の補足をするように久家が言った。 「まあ、そういう切り札があるから強気でいられた、というのはあるよね。でも、それより何より、やっぱりこの人が、意外と古い価値観だから」 「何だって?」  小嶋は久家を横目で睨んだ。 「長男の責任感とでもいうのかな。親の面倒は自分が見るべきってね。結婚して孫の顔を見せるといったことができなかった分、尚更」 「おい、勝手に話を作らないでくれ。考えたこともない」  小嶋は真っ向から否定するが、おそらくは久家の言い分は的を射ているのだろうと和樹は思った。その根拠はない。強いて言うなら、宏樹にも通ずる「長男」ゆえの「俺がやらねば誰がやる」という思い込みのようなものを、小嶋からも感じるせいだ。

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