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第1003話 春嵐 (8)
宏樹のそういう面を頼もしいと評価する人もいるし、ありがたいと思うのも事実だが、何かと比較されることの多かった和樹にしてみれば、恩着せがましいと思わなくもない。また、本人にそういう自覚がない点も、宏樹と似ている。
「まあ、そこがヒデさんのいいところでもあるけどね。いつも自分より人のことを優先する。うちのいちばん上の姉もそうだったな。小さい頃、姉はよく僕を遊びに連れ出してくれたんだけど、いっつも大きなバッグを持ってるんだよ。僕が転べば絆創膏が出てくるし、長い待ち時間に飽きたとごねればシールブックやなぞなぞの本なんかが出てきたし、他の兄弟がやれ爪切りがないとか、やれハサミがないとか騒いだときも同じ。必ず姉がそのバッグから出してくる。僕はまるでドラえもんの四次元ポケットみたいだなって思ってたよ。……でも、少し大きくなってから気付いた。そのバッグには姉のための物がほとんど入ってないってね。彼女は僕たち弟や妹のために、いつもあんな大荷物を持ち歩いてたんだ」
「俺は大荷物を持ち歩いたりしない」
「たとえですよ、たとえ」久家がわざと慇懃な言い方をする。「ヒデさんにもそういうところがあるんだって。一般的に長子というのは、親の期待を一心に受けて可愛がられる分、期待に応えなくちゃっていう気持ちも強いよね。自分のことは後回しにして我慢しちゃう傾向がある。みんながみんなそうじゃないけど、うちの姉やヒデさんはそう。僕はそういうの尊敬する。すごいと思うよ。誰にでもできることじゃない」
褒めちぎる久家の言葉に、和樹も頷いた。
「うちは二人兄弟なんですけど、兄もそのタイプですね」
「お兄さんも?」
「はい。でも、尊敬よりも鬱陶しかったかな。兄は勉強も運動もできるほうだったもんで、その弟の俺は何かと比較されてきたんですよ。だから」
「正直だねえ」
久家は笑うが、小嶋は無反応だ。久家に古い価値観と言われたのをまだ引きずっているのだろうか。それとも、小嶋と同じタイプである宏樹を鬱陶しいなどと言ってしまったせいか。和樹はフォローのように付け加えた。
「そんなこと言っておいて結局は兄と同じ道に進もうとしてるんで……やっぱり尊敬というか、憧れみたいなものはあると思います。ちょっと悔しい気もしますけど」
「同じ道と言うと、教員ですか」
小嶋がようやく反応した。
「はい。地元の高校で教師やってるんです」
「そうですか」小嶋は腑に落ちたといった表情だ。「身近なところにお手本がいらしたわけだ」
「お手本なんて立派なもんじゃないです」
「でも、お兄さんがろくでもない人物だったら、教師は選択肢になかったでしょう?」
「それはまあ、そうですね。でも、具体的な進路として、本気で教師を考えるきっかけは塾でした」
「教えるのが面白かったですか?」
「うーん。そのへんは失敗ばかりでそこまでの境地には至らなかったです。でも、日々変わっていく子供たちを見るのは楽しかったし、先生に向いてるって言ってくれる子もいたし」
和樹が思い浮かべているのは、もちろん、明生だ。――先生、高校の先生になってよ。僕、先生がいる高校に入るから。
「塩谷くんですね」
久家はあっさりとその名を当てる。
「はい」
「彼、都倉くんのことを随分と慕ってましたものね」
「……はい」
そこに限りなく恋心に近い感情が含まれていたことも、久家は知っていたはずだった。だが、そのことには一切触れずに、久家は穏やかに言った。
「彼にとっても、都倉くんにとっても、いい出会いでしたね。我々が生徒から学ぶことは本当に多いんですよ。これはつくづくそう思います。今でも生徒の何気ない一言にハッとさせられることはよくあります」
「……俺、本当に教師に向いていると思われますか? 普通のサラリーマンより?」
和樹はついに直裁に尋ねた。久家と小嶋を交互に見る。
「普通のサラリーマンというのはどういう意味なのかな」
小嶋がそう聞き返し、和樹は思わず姿勢を正した。決して怒る口調ではなかったが、そこには批判の意志が垣間見える。「普通」。和樹は自分が無意識に口にした言葉にゾッとした。普通とか普通じゃないとか、軽々しく言うもんじゃない。涼矢がそれに振り回され、苦しんできたことを知っているのに。
「すみません、軽率でした」和樹は頭を下げた。「言い訳じゃないですけど、平均的な待遇の会社に勤める、という意味で言いました。平均的な給料もらえて、週休二日制で、社会保険完備で、みたいな……。俺、業種や職種にはあまりこだわりなくて。というか、よく分からなくて。父は会社員なのでどんな仕事をしているのか聞いてみたことはあるんですが、積極的にやってみたいと思うこともなかったんです」
それを聞いて久家が口を挟んだ。
「そういうのは大学に聞くといいですよ。就職相談を受け付けるところがあるはずです」
「あ、あります。大学の就職ガイダンスや合同の会社説明会にも参加はしたこともあるんです。でも……」
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