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第1005話 春嵐 (10)

 そして、もうその名ではないと説明すべきかと一瞬思案して、やめた。 「ていうか、俺が勉強の邪魔すると思ってるみたいで。俺、そんなに構ってちゃんじゃないんですけどね」  それを聞いた久家がふふっと声を出して笑った。 「そりゃあ、好きな人がすぐそばにいたら、それだけで勉強に集中なんかできないでしょ?」 「え」 「これはまた、盛大なのろけを聞かされちゃったなあ」  久家は更に冷やかす。 「そ、そんなんじゃないですよ」  同世代、たとえばエミリや柳瀬からの冷やかしには慣れたが、久家のような年長者にからかわれるとどう対応するのが正解か分からず、焦ってしまう。 「あ、あのっ、それより聞きたいことがあるんですけど」和樹は強引に話題を変えた。「久家さんは、戸籍上は小嶋さんなんですよね?」  数年前に養子縁組をしたと聞いているが、塾では久家のままで通しているし、この家の表札には今でも久家の名が小嶋と併記で掲げられている。 「ええ、そうですね」 「どんな感じですか。自分の名前が変わるのって」 「うーん」久家は顎に手を当てて考え込んだ。「どんな感じ……。そうだなあ、まずは面倒だなあと思いましたね。いろいろ名義変更しなきゃならないでしょ、通帳とか、クレジットカードとか」 「そんな風に思ってたのか」  小嶋が横やりを入れた。 「そりゃそうでしょ」久家はいたずらっぽく笑う。「なに、これで正真正銘の家族になれたんだ、なんて感傷に浸っていたとでも?」 「そうじゃないけども」  否定をする小嶋だが、その表情を見るに、明らかに久家の言ったことが当たっているようだ。 「だってそもそもがヒデさんの病気がきっかけでそういう話になったわけでしょう。精神的に浮かれている場合じゃなかったし、手術だ入院だでお金もかかって、銀行関連だけでも慌ただしく名義変更しなきゃならなくて大変だったんだよ」 「俺のそれは、俺から出ているはずだが」  金銭にまつわる内容を和樹の前で直裁に言いたくないのか、小嶋は婉曲な言い方をする。俺にかかった医療費は俺の金で賄っていて、久家の口座は無関係のはずだと言っているのだろう。 「最終的にはね。でも、そういうときは何かと急な出費だってあるんだから、これはヒデさんの口座からおろすとか、これは僕のカードで決済するとか、いちいちやってられなかったの」 「おまえは金勘定が苦手だからなあ」  小嶋はそんな憎まれ口を叩くが、その口調は優しい。久家もまた怒るどころか、そうなんだよね、ヒデさんがしっかりしてて良かったよ、とでも言いた気に笑顔で応じている。そうかと思えば、普段はどちらかというとゆっくり丁寧に話す久家が、和樹に向かって珍しく早口でまくしたてはじめた。 「話を元に戻すけど、法律的に家族になった、その証として同じ姓になったこと自体は嬉しくなかったわけじゃないですよ。でも、別にそれまでだって僕たちの間ではパートナーとして暮らしてきたわけでね、それをどうして他人の定義で家族として認めないなんて言われて、病室にすら入れてもらえないのかな、という気持ちのほうが大きかったんですよね。と言っても現にシステムとしてそうなってて、この人が苦しんでいるときに近くにいたいならそうしろと言われれば、そうするしかないじゃないですか」 「姓を同じにしなくても、法律的にパートナーと認めてもらえるシステムがあれば、そうしなかったってことですか」 「そうです」久家は断言する。「だから職場でもなんでも、通せるところは久家で通してます。久家信夫。それが僕の名前ですから」  涼矢は名前は単なる識別記号だと言う。田崎から深沢になることについても、さっき久家が言ったような「諸手続が煩わしい」という以上の感情はないように見える。自分はどうか、と和樹は自問自答する。初めて涼矢との間で養子縁組の話が出たとき、一日でも早く生まれたほうが「親」と決まっていて、先に生まれた涼矢が都倉姓になることはないと知った。その点では、年齢に関係なくどちらかの姓を選択できる婚姻届とは違う。  涼矢に出会うまで、自分の姓が変わる想定はしていなかった。中学生ぐらいだったろうか、クラスの女子が好きなアイドルの姓に自分の名前をくっつけて、私が○○くんと結婚したらこんな名前になるんだよ、などと言って騒いでいたのを見たことがある。正直、くだらない、と思った。いや、それの何がおもしろいのかが分からなかったのだ。つまりは他人事だった。結婚しようが自分は一生「都倉和樹」で、変わることはない。そう信じて疑わなかった。涼矢と出会って、初めて想像した。都倉和樹が田崎和樹になる未来を。タサキカズキと脚韻を踏むのが嫌だなどと、それこそくだらないいちゃもんをつけたりもした。「深沢和樹のほうがいい?」。そうだ、あのとき既に、涼矢はそう言ってくれていた。  名前に記号以上の意味はないと言う涼矢が深沢姓を選択した理由のひとつには、もしかしたら、あのくだらないいちゃもんも含まれているのかもしれない。久家信夫こそ自分の名前だと強く言う久家を見て、和樹は今更ながらに涼矢の愛の深さを知る。あるいは愛の重さを。

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