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第1006話 春嵐 (11)

 都倉和樹の名に、今の久家ほどこだわっているわけじゃないのに。タサキカズキが嫌だなんて、ただの戯言に過ぎなかったのに。佐江子みたいに、家名を守る義務を負わされてもいないのに。 「涼矢が……あ、田崎涼矢って、付き合ってる奴の名前なんですけど」和樹は小嶋のために補足しながら話し出した。「高校の同級生で」 「とてもいい青年。優しくて、こう、スラーッと背が高くてね、かっこいいんだ。しかも礼儀正しくてね」  久家が小嶋にそんな説明をするものだから、和樹は恥ずかしさと誇らしさ半々でどんな顔をしていいか戸惑った。 「田崎くんか。その節はうちのが世話になったようで、すまなかったね。ありがとうとお伝えください」  小嶋までもが久家の言葉に乗じて言うが、こちらはからかい半分だろう。 「いえ、そのときは車で東京に来てて、ついでだったし。逆に涼矢までごちそうになっちゃって」  和樹の言葉に対して、久家の「そうだ、お寿司」と、小嶋の「車で?」のセリフが重なった。それに気づいた二人が互いに譲り合い、結局久家が言い直した。 「今日はお寿司取ろうと思っていてね。お寿司は好き? 好き嫌いある?」 「そんな、いいですよ。相談聞いてもらいに伺っただけなんで、そろそろ……」 「そう言わずにゆっくりしてってよ。僕らもお寿司食べたいねって言ってたタイミングだったから。それともこのあと、予定がある?」 「ないですけど」 「だったら食べて行きなさい」そう言ったのは小嶋だ。それから久家に「……ノブ、この間のあれ」と言った。 「ああ、そうだね」  久家はいそいそとキッチンに向かう。「この間のあれ」が何かは分からないが、ツーカーの仲とはこういうことを言うのだろうと和樹は思う。 「知り合いから台湾土産でカラスミをもらって、そしたらその翌日に別の人から福島の地酒をもらってね。これは晩酌にちょうどいいと思ったんだけど、ヒデさんは今あんまり飲めないから、飲み相手を探してたんだ」  久家はそう言いながら戻ってきて、まずは日本酒の四合瓶をテーブルに置いた。それから猪口を三つ。次はカラスミかと思っていると、おもむろに電話をしだした。やりとりから寿司屋に出前を頼んでいることが分かった。和樹の部屋に固定電話はなく、デリバリーを頼むことは滅多にないが、するとしてもスマホのアプリから注文する。固定電話をかける後ろ姿にすらどこか懐かしさを覚えて、人が電話で出前を頼むのを最後に見たのはいつだったろうか、などと思う。そして、答えはすぐに思い出せた。なんのことはない、まさにここでの出来事だ。そのときも久家が同じ姿勢で中華の出前を頼んでくれた。見覚えがあって当たり前だ。 「そう、特上を三人前。今日はつまみでいいのある? ……じゃあ、その、焼き穴子にしようかな」  久家のセリフから、相手の店が宅配に特化したチェーン店ではないことが察せられた。きっと前回ごちそうになった中華もそうなのだろうという気がした。  電話を終えた久家は、再びキッチンに向かう。次に食卓に戻ったときには、薄切りのカラスミが、同じく薄切りにされた大根と交互に重ねられた状態で出てきた。その間に小嶋は和樹と久家の猪口に日本酒を注ぐ。和樹が小嶋の猪口に注ぎ返そうとすると、それは断られた。 「俺は味見だけだから」  そう言って小嶋が手酌した酒は猪口の更に半分ほど、一舐めでなくなってしまう量だった。 「元々そんなにお酒は飲まないんですか?」  和樹が尋ねると小嶋は首を横に振った。 「いや、好きだし飲めるほうだったけど、胃が受け付けなくなってね」 「あ、すみません」 「気にしないでいいよ。飲んでる人を見るのは好きなんだ」 「そうなんですか?」 「変な人だよね」  そう言って久家が取り皿を配る。和樹は手伝いますと言い出すタイミングを失ってしまい、腰を浮かせてはまた座る。久家がそれに気づいたかは分からないが、とりあえず乾杯しようと言い、三人は杯を軽く掲げた。 「カラスミは好きですか」  久家が和樹に聞く。 「存在は知ってるけど、食べたことないかもしれないです。ボラの卵でしたっけ」 「卵巣です」 「……」  卵は平気でも卵巣と聞くと怖じ気づいてしまう。 「無理しなくてもいいよ」久家は笑った。「でも、そうすると都倉くんのつまみがないよね。お寿司が来るまでもう少し時間がかかるから……」  追加で何か準備しようと椅子から立ち上がる久家を、和樹は慌てて制止した。 「大丈夫です、チャレンジします」  カラスミのことはよく知らないが、そう安いものでもなかったはずだと思う。取っておきであったであろうカラスミを和樹のために出してくれたのに、食べもしないのは失礼だ。  久家と小嶋に見守られつつ、和樹は大根に挟まれたカラスミを口に入れる。ねっとりとした舌触りと強い塩味(えんみ)。予想していたような生臭さはなく、塩気は大根と一緒にすることで程よい塩梅になる。 「美味しいです」 「よかった」  心からホッとしたように久家が言う。 「日本酒と合うんですよ、これが。あ、日本酒で良かったかな。ごめんね、なんでもかんでも聞きもしないで勝手に決めちゃって」 「大丈夫です」

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