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第1007話 春嵐 (12)
日本酒はまだまともに飲んだ経験がないものの、久家たちの勧める酒が悪酔いする安酒ということもないだろう。それでも念のため少しずつ口にした。
「美味しいです」
言ってからさっきと同じ感想だと気付くが、食レポするタレントじゃあるまいし上手いことを言う必要もないと気を取り直した。久家と小嶋も和樹の二度の「美味しい」を聞いて、ようやく安心できたとばかりに箸を動かし始める。
やがて寿司が届く。一人前ずつではなく、大きな寿司桶に三人前が盛り付けられていた。ここでもまた、小嶋は胃の都合でそう多くは食べられないからと、和樹に多めに食べるように勧める。一度は遠慮した和樹だが、小嶋が苦笑しながら言った。
「自分が若い頃、年寄りがやたらと食べさせたがるのに辟易した覚えがあるのに、申し訳ないんだけどね。食べられそうなら食べてくれると助かる」
「そうそう。残ってるとつい僕が食べちゃうからね、僕のためでもある。こう見えてもダイエット中」
真偽の程は不明だが、久家が付け足した。
そうして勧められるがままに酒にカラスミに寿司に穴子の白焼きに……と口に入れているうちに、知らず知らずふわふわとした気分になる。少しばかり酔ったらしいと自覚すると同時に、「涼矢に怒られる」ととっさに思ってしまい、そんな自分に笑いがこみ上げてきた。
突然笑い出した和樹に、久家が「どうしたの」と驚く。
「や、全然。全然、大丈夫です」答えになっていない答えをしてから、言い直した。「少し酔ったみたいです。そんで、涼矢に怒られるなあ、と思って。あいつ、酔っ払いにうるさいんですよ。自分だって失敗してんのに……って、すみません、どうでもいいですよね」
「おや、飲ませ過ぎちゃったかな」
久家が水の入ったコップを差し出してくる。和樹は即座にそれを飲み干した。
「ちょっとふわーっとしただけなんで大丈夫です。こっちこそすみません」
「俺も気付かなくて申し訳ない」
小嶋も交えてひとしきり謝罪合戦となる。
「二度目ですね」
和樹が言うと、二人はきょとんとした。
「盲腸のときも店で具合悪くなって、久家先生の目の前で醜態晒して、助けてもらいました。みっともないとこばかり見せてますよね、俺」
「醜態だなんて思ってませんよ。盲腸なんて、なりたくてなるわけじゃないんだから」
「盲腸は不可抗力だからまだマシですかね。酒はさすがにだめですよね、大人として」
「そんなこと言ったら、俺なんて相当ダメな部類だな。酒の失敗なんて数え切れないほどある」
小嶋が言う。
「小嶋さんが? 信じられないです、いつもビシッとされてて、崩れないじゃないですか」
「崩れないのは早坂だな」
小嶋が久家に視線を移すと、久家もまた頷いた。
「そうそう、あの人は若い頃から羽目を外すということがないから」
「家でもそうなんですかね」和樹が言う。「奥さんと、お子さんもいらっしゃるんでしたっけ」
「娘がいるよ。もう結婚して家は出てるから、今は夫婦二人暮らしのはずだ」
「久家さんたちと同じですね。夫夫 で、二人暮らし。いいですね」
「いいことも悪いこともあるさ」
小嶋の言葉に、久家が目をむいた。
「ちょっと、悪いことって何」
「そりゃあ、元は他人同士なんだから、一緒にいればいろいろあるだろ。見たくないものだって見るし、見せたくないものを見られるし」
「出っ張ったお腹とか?」
「そんなのは別にいい。お互い様だ」
「じゃあ、何」
「そんな話は後にしろよ。都倉くんに迷惑だ」
「迷惑?」久家が和樹に確認する。「聞きたいよねえ?」
小嶋の味方につくか、それとも久家か。和樹は一瞬の逡巡を経て、後者を選んだ。
「……聞きたい、です」
ほらね、と言わんばかりに久家が小嶋を横目で見た。
「その話をして、困るのは信夫のほうだと思うけど」小嶋はそう言い返して、ガリを囓る。「俺のやらかしなんて酔っ払って玄関で寝ちまった程度のもんでね、大したもんじゃない。でも、この人は俺に浮気現場だって見られてさ」
「ちょ、ヒデさん。それは違うでしょ。いきなりそれはないでしょ」
慌てた久家が小嶋の口を覆い隠そうとする。その手をすかさず払って、小嶋はなおも続けた。
「ほら、困るのはそっち」
「ひどいよ、都倉くんの前でそんな話するとは思わなかった」
小嶋は声を立てて笑った。話の内容と相反する態度にどう反応するのが正解なのか、和樹は判断に迷った。久家の浮気。ひどいと怒りつつも久家はそれを否定しない。ということは、事実なのだろう。だが、こうして笑っている以上、小嶋はそれを許したということか。
「浮気、したんですか。で、許せたんですか」
心の中の疑問が、口をついてしまうのは酔いのせいか。
「都倉くん。そこはあまり聞かないで欲しいなあ」久家は困ったように頭を掻く。「まあ、でも、随分前の話だし、それがきっかけで一緒に住むようになったんだから、雨降って地固まるというか……」
「そうだったか?」
「そうだよ。そんなんじゃ一人にしておけないからってヒデさんが」
「ああ、そうだった。一人にするとすぐ他に行こうとするから」
「まーたそうやって人聞きの悪い」
気付けば久家も笑っている。雨降って地固まる。何十年も付き合っていけば、浮気もそんな風に笑って受け流せるようになるのだろうか。
――たかがハグで、あんなにショックだったのに?
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