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第1008話 春嵐 (13)
和樹は思い出したくもない記憶を思い出す。哲をハグして過ごした涼矢。自分にとっていくらショックでも、あれを浮気とまでは呼べないだろう。とっくに許したつもりだ。だが、水に流したわけではない。現にこうして、ふとした弾みに思い出してはちりちりと胸が焼ける思いをする。
「小嶋さんは、どうして、その」
「浮気を許したかって? 許してないよ。でも、やっちゃったもんは仕方ない。なかったことにはできない以上、それでもこの人と生きていきたいかを考えるしかなかったわけ。いる人生、いない人生、天秤にかけてね。……信夫がいない人生は想像できなかった」
「うわあ、改めてそんなこと言われるとなんか照れちゃうな」
久家が頬を赤らめた。小嶋もまた自分の言葉で照れくさくなったのか、久家とも和樹とも視線が合わないようにしてガリに箸を伸ばした。つまんで小皿に移しただけで口にはしない。
「やっぱり、いいですね」和樹はうつむく。「物理的に一緒にいるって、たぶん、すごく大事なんですよね。もちろん世の中には単身赴任の人だってたくさんいるし、家族バラバラに暮らしていても仲のいい家族は普通にいるだろうけど……でも、そういう人たちは、夫婦――所謂男女の、法律上も結婚してるっていう、そういう夫婦だったり、子供がいたりとかで、離れてても関係を保証してくれるものがあるじゃないですか。でも、俺たちみたいなのは、本当に、一緒にいなかったら何なんだろうっていう……」
そこまで言うと和樹は黙り込んだ。続く言葉が見つからなかった。
「その通り。一緒にいるのは大切だよ」久家が言う。「さっきヒデさんは見たくもないものを見る羽目になる、なんて脅してたけど、やっぱり情報量が違うから。毎日一緒にいれば些細な変化にも気づける。最近顔色が悪いな、何かあったのかな、とかね。電話越しの声やメールの文字列だとそこまではなかなか分からないでしょ。体調の変化って当の本人は気づいてないことも多いし」
小嶋の闘病生活を支えてきた久家の意見は重い。それだけに、コミュニケーションのほとんどを「電話越しの声」か「文字列」に頼っている和樹には耳の痛い言葉だ。
「十年かかった」
小嶋の声に和樹は顔を上げる。
「つきあってから十年後だ。俺たちが一緒に暮らしはじめたのは」
「そうだっけね」
「ああ。と言っても職場は同じだったし、一人暮らしのノブの部屋にしょっちゅう入り浸ってはいたけど」
「逆に言うと、ちゃんと一緒に暮らそうと思えるようになるまで十年かかったってことか」
「そう」
焦らなくていいというフォローのつもりなのだろう、と和樹は思った。
大人はいつもそう言うのだ、とも思う。まだ若いんだから。時間はたっぷりあるんだから。だから焦らなくていい、じっくり考えればいい。でも、同じ口でこうも言うんだ。進路は決めたのか。就職活動は順調か。いつまでも学生気分じゃだめだぞ。それから、久家と小嶋を「大人」と定義するときの自分は何なのだろうと思う。
好きな人と暮らしたいと思うのは、好きなおもちゃを自分の周りに並べるこどものような、幼稚な感情なんだろうか。でも、「所帯を持ちたい」と言い換えるなら、それはむしろ大人としての覚悟を決めたという意味になるではないか。いや、しかし、その場合は前時代的な「男が稼いで妻子を食わせてやる」といった価値観の元でこその「覚悟」だろう。対等でありたい俺と涼矢が目指すものとは違う。
「難しいな」
独り言のように和樹が言う。
「田崎くんに早いところ司法試験に合格してもらわないと、ですね」
久家はそう言って笑った。
「まあ、そんなに何年もかからないとは思ってますけど……いや、でもどうかな、結構本番に弱いんですよね、あいつ。高校も大学も第一志望は落ちて」
「そのおかげで都倉くんに出会ったんなら、良かったんじゃないですか。大学もきっとそう。あのとき第一志望に落ちて良かったと思う日が来ますよ」
久家の言葉に癒されかれたところで、すかさず小嶋が言う。
「そう思えるようにするんだよ。自分の努力でさ」
「それはそう。田崎くんは言われなくても努力する子だと思うけど」
短時間会っただけの涼矢のことをそんな風に言ってくれるのは嬉しいが、半分は自分への気遣いなのだろうと思う。
「はい、努力家なんです。俺の何倍も」
「合格するまで同棲しないなんて、そりゃあ自分に厳しい、努力家に決まってるよ」
久家が得意そうに言うのを横目に、小嶋が苦笑する。
「若い頃のノブだったら、近くで応援してくれなきゃ絶対無理、って言いそうだもんなあ」
「ひどいなあ、と言いたいところだけど、その通りだね。浪人時代は恋人もいなくて、ほんと辛かった。実家暮らしで家族がいたからなんとか耐えたけど」
「そのくせ合格したらとっとと一人暮らしを始めるのがおまえらしいよ」
「憧れてたからね、一人暮らしってものに」
「一貫性がないな、賑やかなのがいいと言ってみたり、一人がいいと言ってみたり」
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