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第1009話 After a storms(1)

「今思うと隣の芝生は青いというか、ないものねだりだったよね」久家は小嶋から和樹に視線を移動する。「最近ようやく、持ってるもののありがたみが分かるようになったよ。若いうちは自分にはあれもない、これもないと、ないものばかり数えてた。年取って良かったと思うことのひとつだね」  久家の言葉は理解できそうでしきれなかった。年を重ねて達観できるようになれば、生きてくのに必要最低限のもので満足できるということだろうか。仙人のような枯れた老人の姿が目に浮かぶ。それは今も目の前で美味そうに寿司を頬張っている久家とは程遠いのだが。 「まあ、なるようにしかなりませんよ」  和樹の表情に何かを察したのか、その話題の最後は、そう言って締めくくる久家だ。投げやりにも聞こえるその言葉が、だが、和樹を元気づけるためだということは伝わってきた。なるようにしかならない。それはどんな努力をしたところで無駄だと言っているわけじゃない。涼矢が受験に失敗したから二人が出会えたように、今は先が見えなくてもいつか落ち着くべきところに落ち着くのだから安心しろ、というエールに違いない。  久家の家から自宅に戻った和樹は、自身のほろ酔い加減にだいぶ遅い帰宅の気がしてスマホで時刻を確認したが、まだ十時にもなっていなかった。その割には随分長居をしたように思うが気のせいか。そう思った次の瞬間に思い出す。指定された訪問時間は午後三時。そこから茶菓子でもてなされ、寿司が供され、それなりに長い時間を過ごしたのは間違いがなかった。 ――やっぱ教師一本か。  そもそもはその相談をしに行ったのだ。結論を出してもらえたのだから、行った甲斐はあったと言うべきだろう。  和樹は水道の蛇口の下にコップをつきだし水を注ぐと、その場で一気に飲み干した。更にもう一杯、なみなみと注ぐ。今度はそれをいったんテーブルに置き、上着を脱いでから飲んだ。吐き気や頭痛を伴わない軽い酔いは心地よいが、やたらと咽喉が渇く。  風呂に入るか、涼矢に電話をするか。しばし迷ったのちに、後者を選んだ。風呂はもう少し酔いを醒ましてからのほうがいいと判断したのだ。その判断ができているのだから酔っぱらってないぞ、などと誰かに言い訳するように思ったりする。  メッセージを送るのが億劫で、ワンコールしてすぐに切った。涼矢からの折り返しもまた、すぐだった。 ――あれ、今日、どっか行くって言ってなかったか。 「行ったよ。久家先生ん()。で、もう帰ってきた」 ――家まで行ったのか。 「そう。小嶋先生もいた。で、三人で寿司食って」 ――寿司か。いいな。 「美味かったよ。あと、カラスミ、初めて食った」 ――カラスミって寿司ネタになるの? 「いや、それは寿司と別。つまみで。なんか外国のお土産でもらったとかで」 ――へえ。美味かった? 「しょっぱかった」  涼矢の笑い声が聞こえた。 「でも、日本酒と合うね」 ――日本酒、飲んだの? 「うん。ちょっとだけね」 ――……先生たちと一緒なら大丈夫か。 「どういう意味だよ。俺は適正な量ってのが分かってるから大丈夫」 ――そっちこそどういう意味だ。  そう言いながらも、涼矢自身が笑い出す。 「涼矢も俺と一緒のときなら飲んでいいから」 ――おまえと一緒のときは車のことが多いからなあ。 「ここで部屋飲みするならいいだろ」 ――ああ、そうね。次行ったらね。 「うん」  少しの間が空いて、涼矢が言う。 ――次は先になりそう、かも。ゴールデンウィークも外せない講義あって。 「うん。俺も」 ――和樹は就活もあるだろ。 「んー。それはね、とりあえず、教職に専念しようかなって」 ――え、そうなの。 「今日、その話をしに行ったんだよ。久家先生んとこ」 ――ああ、そういうことか。 「分かってただろ」 ――うん、まあ。なんとなく。 「先に俺に相談してほしかった、とか思った?」冗談混じりの言葉に涼矢は口籠もり、その反応に和樹のほうが慌てた。「え、本当にそう思った?」 ――いや、別に。……全然思わなかったわけじゃないけど、でも、相談されても俺には答えようがないことだから。俺だって司法試験のことは和樹に相談しないし。 「確かに相談されても困るわ」 ――和樹が先生目指すにしろ、そうじゃないにしろ、俺にやれることは応援するぐらいだから。 「それで充分ですわよ」和樹はわざとふざけた口調で照れ隠しをする。「俺も全力で応援してる。つか、マジで本当に最短で受かれ」 ――またそんな無茶ぶりを。 「だって涼矢くん、受かんないと一緒に暮らしてくれないって言うから」 ――それは……。 「久家先生言ってたよ。一緒にいるのは大事って」 ――だから、それは。  焦る涼矢に、和樹は笑う。

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