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第1010話 After a storms(2)

「分かってるって。俺が近くにいたらスケベなことで頭がいっぱいになって勉強どころじゃなくなるんだろ?」 ――その通りだけど、その言い方はなんかむかつくな。 「その通りなのかよ」 ――そう言ってるだろ、前から。 「ははっ。……ま、そんなわけで、俺もやっと少しだけ涼矢に近づけたよ」 ――近づけたって? 「将来のこと。教員一本に絞れたから」 ――それが俺に近づいたことになんの? 「なるよ。俺だけふらふらして曖昧だったろ。おまえはずっと弁護士目指して一直線なのに」 ――俺がほかの職業を考えてないからって、和樹まで焦っていろんな可能性捨てる必要はないんじゃない? 「焦ってねえし、可能性捨ててもねえよ」 ――それならいいけど。  この話題を続行するのはよくない、と和樹の頭の中で黄色信号が灯る。その理由をはっきりとは言えないが、これまでの経験上そんな予感がするのだ。だから無理やりに話題を変えて、それ以降は他愛もない会話をして通話を終えた。  和樹は予定通り浴槽に湯を張り始めた。焦ってないし、可能性を捨ててもいない。涼矢にはそう言ったものの、本当にそうだろうか、と気持ちが揺らぐ。何故だ。何故俺はいつもそうなんだ。今日、久家先生と話して、確かに「これだ」と思ったのに。教員一本で行く。その覚悟をしたはずなのに。  風呂に入ると、和樹は久々に水面下にまで顔を沈めてみた。細く息を吐くとぶくぶくと泡が出る。考えごとをするときのくせ。そのくせが発動する「考えごと」は、大抵「向き合いたくない、考えたくないこと」なのだと、ようやく悟る。 ――あいつは。涼矢は、こんな風に迷ったりしないんだろうか。  涼矢が完全無欠じゃないことぐらいは分かっている。派手な感情表現はしなくても、心の(うち)は誰よりも繊細で、豊かな感受性の持ち主だということも知っている。そう、初めて見た涼矢の絵みたいに。  でも、少なくとも「弁護士になりたい」という夢は、初めて聞いたときから揺らいでいない。その夢は俺と出会う前、渉先生に出会ったときからの夢だ。それどころか、もっと前、物心ついたときから見ていた佐江子への尊敬の念もあるはずだ。そうだ。涼矢が一途にその夢を追う理由に、俺が入り込む余地は少しもない。  それが淋しいと言えば、涼矢は笑うだろうか。呆れるだろうか。……いいや、そんな夢より和樹のほうが大事だとかなんとか、歯の浮くようなセリフを平気で吐くに違いない。そして本当に俺がそう願えば、いとも簡単にその夢を捨てるのだろう。  もちろんそんなことは言わない。涼矢の夢は涼矢の夢だ。しかも弁護士なんて、トップクラスに「立派な夢」だ。それを邪魔していいはずがない。でも、ほんの少しだけ、思ってしまうのだ。――俺がどうしようもなく落ちぶれたときには「夢を叶えた」涼矢に食わせてもらうんじゃなくて、一緒に落ちぶれてほしい、と。  そこまで考えて、和樹は気が付いた。  それはかつて涼矢に言われたセリフと同じだ。 ――『それでも、そういう時には、一緒に、傷ついてほしい』  俺たちが二人で生きていこうとするなら、いろんなことを――俺が想像するよりずっとたくさんのことを――犠牲にするのだと涼矢は言い、その上でそう言ったのだ。  あの日の涼矢の切実な決意が今、自分に突き刺さる。本当はそんなこと望んでない。傷つきたくもないし、傷つけたくもない。落ちぶれたくもなければ、一緒にダメになってほしくもない。でも、見上げることも見下すことも嫌なのだ。いつも隣にいて、同じ歩幅で進んでいたい。難破船で一人だけ助かったって意味なんかない。それなら俺は、涼矢と一緒に水底に沈む。 ――なんつって、二人して助かっちゃうかもしれねえけどな。俺ら、泳げるもんなあ。  最後に和樹はそう思い、一人でふふ、と笑った。  そうだ。俺らは泳げるから。「あの日」の涼矢もそうだった。香椎先輩と過ごした時間のおかげなんかじゃない。涼矢は、涼矢自身の力で、戻ってきたんだ。俺だってできる。俺はずっとあいつのライバルだった。あいつにできて俺にできないことなんかない……こともないけど、でも、俺たちはいつだって互いに競い合って、高めあってきたんだ。あいつが夢に向かって頑張れるなら、俺だってできる。  四月になった。それなりに順調に単位を取っていても、教職課程があると三年になっても早々楽にはならないことに、和樹はついため息をつく。 「履修登録ってなんであんなにややこしいかね」  渡辺海が言う。校内のフリースペースでのことだ。 「ほんとだよ。全然システム化されてないよな」 「卒業要件を満たしているかぐらい、自動計算してくれればいいのに」 「だよな」

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