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第253話 リスタート(9)
「知ってる! スイミングで一緒だったもん。ねっ。カズキっち!」
「……菜月ちゃん?」和樹は目を疑った。スイミングのインストラクターのバイトをしていた時の教え子だ。その時から和樹に懐いている。
菜月の周りがざわついた。
「ハイハイ、静かに。関係ないおしゃべりはしないで。授業を始めます。」極力「先生らしく」聞こえるようにと心がけながら、和樹は初めての授業を始めた。
休憩に入る時も、時間厳守。和樹は授業の後半になるとそのことばかり気になってしまった。腕時計をする習慣がなく、普段時計代わりにしているスマホはバッグに入れたままデスクの引出の中だ。仮にポケットにでも入っていたとして、生徒は授業中の利用を禁止されている手前、自分だけいじるわけにもいかない。教室の壁時計は生徒側から良く見える正面の壁、つまり和樹からは背中側に掛かっている。現在時刻を確認するには、その時計を板書をする時にチラリと見るしかない。次回は小さな置き時計でも持って来ようと思う。
なんとか時間通りに所定のカリキュラムをこなし、和樹は記念すべき第1回目の授業を終えた。どっと疲れが出た。これならプールで5kmばかり泳ぐほうが楽だとさえ思った。
職員デスクのほうに戻ろうとした時、菜月が飛んできた。
「私のこと、覚えててくれて嬉しい。」と菜月が言った。キャバ嬢の営業トークみたいだな、と和樹は思った。キャバクラなんて行ったこともないから、単なるイメージだが。
「この塾だったんだね。」
「そう、あのね、スイミングの後にね、夏期講習を受けてね、そのまま入ったの。」
「中学受験するの?」応用クラスの子の中には受験する子もいる。
「ううん、しない。カズキっちが月水だって聞いたから、合わせたんだよ。」と菜月は上目遣いで言った。
「え、なんで知ってたの。」
「夏期講習の時、菊池さんがタイムカード作ってたの見つけたの。カズキっちの名前書いてたからマジびっくりして、担当する曜日、聞いちゃった。」
「へえ。」
「えー、反応うすっ。だってさ、このクラス入るのは実力テスト受けて合格しなきゃなんだよ? 私、カズキっちのために超頑張ったんだから。」
和樹は苦笑する。頑張ったのを嘘とは言わないが、進学塾のような苛烈なクラス分けではない。半数がこのクラスにいることからも分かるように、平均点以上取れば入れるのだ。使用テキストの関係で若干費用が高いので、成績が良くてもあえて一般クラスを選択する子だっている。それでも一応は言ってほしそうなことを言う。「そうか、俺のためにありがとね。是非、今後も頑張って。」ただし、変に期待を持たせないように、わざと棒読み口調で。
和樹の「相手にしていない」オーラは正しく伝わったようで、菜月は「うっわあ、ひどーい。」と口をとがらせた。だが、本気で怒っているわけではないのは分かる。どちらかと言うと、他の生徒に対して、「自分は都倉先生のことを前から知っている」という優越感を誇示したいようで、必要以上に声を響かせているようだ。そんなところを見ると、小学生でも女は女なんだな……などと、和樹は内心思う。
「教室に戻って。次は数学だろ。」
「さ・ん・す・う。」懐かしい響きだ。
「あ、そっか。」
「じゃね、先生も頑張ってね。」菜月はそんな生意気な一言を残して、自席に戻って行った。
早く帰らせたいという早坂の意向によるのか、授業と授業の間の休憩時間も5分と短い。今日の和樹はこの2時限目の1コマは空いているから、今のうちに1時限目の日報の入力を済ませようと思い、パソコンを起動させた。3時限目には小5のクラスが控えている。水曜日には更に中学生クラスも1コマあり、3コマびっしりだから、頭の切り替えが大変そうだ。
「小野寺さんのこと、知ってるんですか。」向かいのデスクの男が聞いてきた。確かメインは理科の担当だったと思う。彼もこの時間は空き時間のようだ。小野寺さんと言われて、和樹は一瞬誰のことかと思ったが、菜月の苗字であることを思い出した。
「ええ、先月、スイミングスクールでインストラクターの仕事してて。短期のバイトですけど。その時の生徒です。偶然で、びっくりしました。」
「スイミング? なんでもできるんですね。」と彼は感心したように言った。
「そんなことないです。水泳はこどもの頃からずっとやってたんで、少しは人よりできますけど。」
「しかもイケメンで。」
「いやぁ……。」
「小野寺さん、私みたいなおじさんには、あんな風に笑いかけてもくれませんよ。女の子ってのは、正直ですね。」そういう彼の頭頂部はだいぶ淋しいことになっている。
「俺が舐められてるだけだと思います。」
「授業はどうでした? 緊張した?」
「はい。めっちゃ見られているから、視線が怖かったです。背中でも分かるものなんですね、視線って。」和樹が正直に答えると、彼はハハハ、と笑った。
「私はこの仕事が長いから、もう慣れましたが、慣れというのも怖いですよ。やっぱり惰性でやる授業って、自分も生徒も面白くないものでね。」
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