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第254話 リスタート(10)
「そう言えば、俺以外、社員さんなんですよね?」
「そう、私と早坂ともう1人、今日は来てないですが小嶋ってのがいて、その3人が脱サラして作ったんです、ここ。20年位前かな、都倉先生が生まれる前かもしれませんね。その3人は役員で、社員ではないです。あとの数人が契約社員です。」
「アルバイトは俺だけというのは、本当ですか? 塾でそれって、珍しくないですか?」
「本当ですよ。やっぱり、こどもとの信頼関係を築く上では、ある程度長い期間責任を持って勤めてほしいので、今まで学生アルバイトは募集していませんでした。契約社員の1人は、ここの1期生だった子なんですよ。かつての教え子がここに戻ってきてくれて同僚になるなんて、嬉しいことです。そういう関係をどの子とも作り上げたいんですよね。ただ、今回は、今言った小嶋が家庭の事情でフルタイムで働くのが厳しい状況になってしまったので、試しにアルバイトも導入してみようということになって。」
「じゃあ、責任重大ですね、俺。」
「はい、責任重大です。」彼は温和な微笑を浮かべた。「まあ、でも、大丈夫ですよ。なんとかなります。分からないことがあれば、いつでも聞いてください。」
「ありがとうございます。」一番聞きたいのはあなたの名前だと思いながら、和樹はお礼を言った。「あ、早速質問していいでしょうか。」
「はい。」
「日報入力しようと思ってシステムを起動したら、ログイン画面が出るんですけど、何を入力したらいいですか?」さすがに「あなたの名前は何ですか?」とは聞けないので、今まさに直面している疑問のほうを尋ねた。
彼は立ち上がって、デスクの島をぐるりと回って、和樹の傍らに立った。ログイン画面を見て、質問の意味を理解したようにうなずいた。「菊池さん。都倉先生のIDってもう決まってますか。」
菊池はハッとした顔で振り返った。「そうだ、それをお伝えしていなかったですね。あ、ということは、これもだわ。」菊池はゴソゴソとデスク上のレターケースをあさり、何かを取りだした。ストラップのついた名札だった。既に和樹のフルネームが印刷されているそれを、菊池は和樹のところまで持ってきた。「すみません、お渡しするのを忘れていました。こちらが都倉先生の名札です。ここに来られた時には首からかけてください。裏にパソコン入力に必要なIDが印字されています。パスワードは……。」菊池はパスワードを口頭で和樹に伝えた。和樹の名前をローマ字にしただけのような簡易なものだったから、口頭でもすぐに覚えることはできたが、口伝えの上にそんな簡単な内容ではパスワードの意味がないのではないか……と思わなくもなかった和樹だった。しかし、別に聞かれて困る者はこの場にいないのだから、まあいいか、と思う。
和樹は名前の分からなかった男の胸元を見た。名札があった。「久家信夫」とあった。くげのぶお、と読んだが、よく見るとふりがなが添えられている。それによれば、くげしのぶ、と読むようだ。「のぶお」のほうがルックスには似合うと思ったが、もちろん口にはしない。久家先生、と和樹は心の中で復唱した。
その後もところどころ久家に教わりながら無事に日報等を入力できた。それから3時限目の小5クラスもなんとかこなした。今度はそれの日報をまた入力しなければならない。さっきは菊池と久家しかいない落ち着いた空間で入力できたが、3時間目の終わりとなると、帰るこどもたちが受付周辺に集中して、ICカードをリーダーにかざすための列ができてしまい、それを待つ間にもしゃべったりふざけあったりするから賑やかだ。その上、和樹のところには質問に来る生徒や興味本位で話しかけてくる生徒が次から次へと押しかけてきて、入力どころではなかった。他の先生にも質問に来る生徒はいたが、和樹の周りはひときわの大盛況で、受け持ち以外の生徒までいるらしい。8時半になると早坂がやってきて、「小学生は8時半まででしょう。早く帰りなさい。」とぴしゃりと言ってくれて、ようやく和樹に群がるこどもたちが退散してくれた。
中学生は始業も遅く、授業時間も小学生より10分長い。すべて終わるのは9時10分だ。だから今いたのは小学生だけで、中学生の姿はない。
「中学生は9時10分まででしたっけ。」和樹は早坂に確認した。
「そうです。中3のみ、保護者からの申請書を出してもらえれば、10時まで自習室として教室に残ることが可能です。」と回答が来た。
「ということは、先生方はもっと遅くまで残るんですね。」
「我々は授業以外にも教材研究や営業活動等の業務もありますし、基本勤務時間は15時から22時半までです。もっとも、ほとんどの先生はそれより早く来るし、それより遅くまでいますけどね。」
でも、今日、和樹が17時少し前にここに来て、しばらくしてから何人かの講師がやってきたはずだ。あれは出勤ではなかったのか。そう言われれば、誰もタイムカードを押していなかった気はする。
和樹の不思議そうな表情を、早坂はいちはやく察したらしい。
「一般企業の昼休みにあたるのが、16時から17時です。その間に夕食を済ませます。世間のリズムとは合わないですね。」早坂が、たぶん、笑った。たぶん、というのは、笑顔と言うには、あまりにもささやかな表情の変化だったからだ。
「都倉先生も何かお腹に入れてから来た方がいいですよ。ここでは食べる暇、ないでしょう。」菊池が言った。言いながら、自分のデスクの脇机を開けて、何か取り出している。「これ、都倉先生にあげる。」差し出してきたのは、チョコバーだった。
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