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第255話 リスタート(11)
「え、いや、それは……。」菊池が遠慮する和樹に押し付けるようにするので、和樹は仕方なくそれを受け取った。
「菊池さん、都倉先生だけですか。」早坂が言った。
「はいはい、分かりましたよ。」菊池は呆れたようにそう言うと、同じ袖机の引出から、今度はキャンディーの袋を取り出した。「はいどうぞ、1個ずつ。」菊池の周りに、その場にいた、早坂を含む講師4人が次々とやってきて、順繰りにキャンディーをもらった。なんだか菊池が雛に餌を与える親鳥のように見える。
「俺はこれで、いいんですか。」和樹はチョコバーを掲げて見せた。
「それは1個しかないので、都倉先生どうぞ。」菊池がにこやかに言う。
「贔屓ですね。」早坂がキャンディーで頬を丸くさせながら言った。
「都倉先生は若いんだから、お腹空くでしょう。飴1個じゃかわいそうです。」菊池が言い返した。
「年寄りだってお腹は空きます。」
「みなさんはお食事済ませてるじゃありませんか。」
「だ、そうです。次回からは食事を済ませてから来てください。言うのを失念していて、すみません。」早坂が和樹に言った。
「いえ。分かりました。」
「とはいえ、先生がここでお菓子を食べているのは、あまり見栄えの良いものではないですね。食べるなら急いで食べてください。」早坂にそう言われ、和樹は慌ててチョコバーを頬ばった。しかし、中がウエハースで、予想外に食べづらい上に口の中の水分を持って行かれる。軽くむせると、「そこに冷水器がありますから、どうぞ。」と早坂が言う。勝手なことを言うくせに、妙なところはやたらと気がつく男だ。和樹は口の中がいっぱいでろくにしゃべれず、会釈だけして早坂の前を横切って冷水機まで走り、水を飲んだ。そのまま冷水器の隣で、残りも食べた。
「ごちそうさまでした。」と和樹は菊池に頭を下げた。それから早坂のほうに向き直る。「あの、日報なんですけど。1時限目は入力終わってるんですが、3時限目のほうはこれから入力するんです。まだ慣れてなくて、入力に時間かかっちゃってて、最後までやったら俺の勤務時間過ぎてしまうと思います。いったん9時でタイムカード押すので、その後も残って入力作業していいですか?」月曜日は9時までという契約だった。
早坂は「残るのは構いませんし、タイムカードはすべての入力が終わってからで結構です。」と言った。
「でも、俺の入力が遅いだけなんで……。」
「何時までかかりそうですか。」
「9時半までには。」
「その根拠は?」
「え? あ、はい、えっと、1時間目の分は40分ぐらいかかって、でも、次は2回目なので30分あれば大丈夫だと思うし、今8時40分だから9時10分に終わる計算になります。でも、念のため余裕を見て、9時半まで、と……。」
「了解です。そのぐらいの超過は問題ないので、さきほども言った通り、作業が終わった時点でタイムカードを押して下さい。ただし、そういった場合は残業の割増はありません。今後についても同様です。特に次回は3コマ全部ありますよね? 3コマ分を授業終了後に入力するのですから、もっと時間がかかると思いますが、都倉先生のご都合としては、遅くなるのは問題ありませんか?」
「こちらは、全然。何時でも。」
「では、次回も同様に対応してください。しかし、時間短縮の努力は怠らないようにして下さい。」
「は、はい。」
「慣れるまでは別室を使いますか? この分では、ここにいると生徒が都倉先生にまとわりつくのが目に見えていますから、相手をしていたら余計に時間がかかります。」
「でも、質問に来る子もいますよね。」
「それは他の講師も対応できるので。それに生徒が都倉先生に聞きたいのはそういうことではないと思います。」早坂のこんなセリフに、周りの講師のほうがクスクスと笑った。
「えっと、じゃあ、最初だけそうしていただいて……」そう言いかけて、和樹は、言い直した。「いや、やっぱり、ここで、みなさんと同じようにします。生徒の名前とか、早く覚えたいし。ただ、質問の対応はほかの先生にお願いするかもしれません。俺じゃうまく答えられないことが多いと思うので。それで、回答の仕方とかも勉強させてください。」
早坂が、初めて表情を変えた。驚いているようだ。それから、今度ははっきりそれと分かるほど、にっこりと笑った。「良い心がけですね。」初めて見る、まともな笑顔だった。
久家も口を開いた。「一応担当教科はあるけど、どの先生も5教科は全部対応できますから、困った時はどんどん振ってください。」
「5教科、全部?」
「そうですよ。」
「すごいですね。」和樹は心からそう言った。心なしか、その場にいる全員が得意気な顔をしている。
「では、みなさん作業に戻ってください。」早坂が言うと、自分の席に戻る者、上のフロアに向かう者、と、各自持ち場へと散って行った。和樹も自席に戻り、入力作業を再開した。
余裕を持って9時半と答えたはずが、大学のパソコンルームのものとはOSからして異なっていて、パソコンの基本操作に思いのほか手間取って焦る。久家の補助がなくなった途端にこれか、と自分を情けなく思いながらも必死にやって、最後はなんとか9時半に間に合わせた。
こうして和樹の長いバイト初日が終わった。
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