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第257話 リスタート(13)
――データと違って、削除しろと言われても、できないからね?
「おまえもやれよ、キスの音。俺も、脳内書き込みやってみる。」
――えー。できないよ。
「ンパッ、って。息継ぎの時みたいにさ。」
――息継ぎ、ねえ。
パ、という小さな両唇音が聞こえてきた。「なんかちょっと違う気がするけど、まいっか。」
――意外と難しい。
「練習しな。」
――1人で息継ぎ練習するの? やだよ。
「実物がいいよな、やっぱ。」
――うん。
「1日しか経ってねえのにな。既に涼矢不足。10月まで耐えられっかな。」
――今の言葉でイキそ。
「ははっ。」
力なく笑う和樹の声。
――やっぱり、結構疲れてない? 珍しく殊勝なこと言うし、声にも張りがないし。
「そう? 授業で大きな声ずっと出してたからかな。そのうち慣れるよ。」和樹は涼矢に、そこまで疲れていること、また、自分の未熟さにショックを受けたことを悟られまいと思う。
――そっか。すごいな、俺、人前でそんな大きな声でしゃべるなんて絶対できない。
「そんなことないだろ。副部長の時、何十人も前にしてしゃべってたじゃない? あ、それにほら、応援団だって。」
――応援団はほぼ口パクだよ。部活の時だって、ボソボソしゃべってただろ。おまえの悪意のある物真似でもそういう風にやってただろ。
確かにそうだった。今、真似してみろと言われたら、やはりボソボソしゃべることになるだろう。
「でも、法廷で、異議あり!とかやんなきゃいけないんじゃないの。」
――ドラマの見過ぎ。大声張り上げるような大きな裁判なんか早々関われないよ。
「そんなことよりさ、おまえは今日何してたの。」
――普通に、地味に。
「勉強?」
――そうだね。
「外に出た?」
――あ、出てないかも。
「そんなだから生っちろいんだよ。メシはちゃんと食ったの?」
自分がろくに食べていないのを棚に上げて、聞いた。
――……あー。うん。
「食ってないな?」
――食べたよ。
「何を。」
――チョコバー。なんか、佐江子さんが大量に買い込んであったの、見つけて。
和樹が吹き出した。
――そこまで面白い話じゃないと思うけど?
「俺もさっき食ったんだ、チョコバー。塾の事務の人にもらって。中がウエハースの。」
――残念、ちょっと違ったな。俺のはナッツのやつ。
「まあ、お互い、もちっと、まともなもん食わなきゃな。」
――はは、そうだな。
涼矢は軽く笑ったあと、一拍置いて、言った。
――じゃあ、今日は俺、もう寝るから。
「もう? おまえいっつも、2時3時に寝てるんだろ。まだ12時前だよ。」
――和樹の声聞いたら、安心して、眠くなった。
「なんだよ、それ。」和樹はそう言った瞬間に、涼矢は、自分が眠いのではなくて、和樹を気遣って電話を早めに切り上げようとしていることに気付いた。そして、このまま会話を続けていたら、バイトの弱音を吐いてしまいそうだとも思った。深夜は何かと感情が高ぶってしまう。「ま、じゃ、俺ももう寝るわ。おやすみ。」
――うん、おやすみ。
電話を切って、そんな風に気遣われるほど、疲れが伝わってしまっていたのだろうか……と、和樹は思う。きっと、涼矢の声を聞いて安心したのは俺のほうなんだろう。もう絶対、バイトの愚痴とか弱音とか、涼矢には言わないようにしよう。愚痴ったところで、あいつは馬鹿にもせずにちゃんと聞いてくれるんだろうけど、やっぱり、ちょっと、な。「またあのくだらないプライドか」と笑われるかもしれないけど、俺にだってその程度の意地はある。
2回目のバイトは翌々日の水曜日だった。初めての中学生クラスは、小6とたった1学年違うだけでこうも違うのかと思うほど、生徒が大人びて見えた。学校帰りに直接来たらしき、制服やジャージ姿で、部活の道具が入っているサブバッグを担いで来る子もちらほらいる。部活の後の古文など子守唄に聞こえるのだろう、ウトウトとまぶたが降りてくる男子生徒を見て、「古文の授業はお昼寝タイムだった」という涼矢の言葉を思い出した。そのまま寝かせてやりたい気持ちもあるが、「先生」の立場としてはそうも言っていられない。一方で楽器ケースを大事そうに抱えてくる女子生徒もいる。何の楽器かと聞けばアルトサックスだと言う。別の生徒によると、居眠りをしているのは野球部で、サックスの女子と交際しているのだとか。
「じゃあ、アユちゃんが耳元でサックス吹いて起こしてやって。」と和樹が言うと、
「そんなことしたら、糸井くんの鼓膜が破けちゃいます。」と"アユ"と呼ばれた子が大真面目に答え、その声が聞こえたのか、坊主頭がムクリと起き上がり、照れくさそうに笑った。
可愛いカップルだな。和樹は、ついニヤついてしまいそうになるのをこらえるべく、テキストに集中した。
「都倉先生は彼女いるの?」授業を再開しようと思った矢先に、さっき糸井とアユの関係を暴露した女子が聞いてきた。
「授業に関係ないでしょ。そんなこと言ってる余裕があるなら、次、読んで。ええと、何さんだっけ?」
「橘。」
「タチバナ……。ああ、橘風香 ちゃんね。風流な名前だね。橘の花は香りがよくて、平安時代に愛された花のひとつ。」
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