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第258話 リスタート(14)

 高校の頃。涼矢がお昼寝タイムと位置付けていたのとは対照的に、和樹は古文や漢文の授業が好きだった。和歌に詠われる美しい世界や、漢詩の韻の心地よさに心惹かれた。現代文はそう好きでもなかったし、文学では食べていけない気がしたから、文学部を選ぶことはしなかったが。涼矢がその低音ボイスを褒めていた古文の吉田先生は、授業の合間の雑談で、扱っている古典作品の時代背景や当時の流行などをおもしろく話してくれる人で、和樹はそれを聞くのも楽しみのひとつだった。橘の花の香りなぞ実際に嗅いだこともないが、"橘風香"の名前を見て、そんな言葉が口をついて出てきたのも、吉田先生の余談が元だ。今となっては、そんな余談ばかりを覚えている気がする。 「うち平安時代に生まれたかった。そしたら受験もないし。」 「でも、平安時代は栄養状態もよくなくて、平均寿命は30歳程度だよ。」これも吉田先生仕込みの知識だ。 「それでもいい。」 「何言ってんの。そんなこと言わずに、まずは次の行から、読んで。」 「はぁい。」  授業を終えて、和樹がホワイトボードを消していると、風香が通りざまに言った。「都倉先生って、光源氏みたい。」 「え?」 「モテそうだし、いっぱい彼女いそうだから。」 「そんなことないよ。」 「1人だけ?」 「そう。」  風香はニヤリとして、帰り支度をしている他の面々に向かって宣言した。「センセー、やっぱ彼女いるって!!」  ワァッと歓声が上がる。 「馬鹿なこと言ってないで、さっさと帰れ。……ったく。」和樹は虚勢を張りつつ、そそくさと退散した。――油断した。中学生のかけたカマに引っかかるなんて。  デスクに戻ってからは、3コマ分の日報と進行表を必死にまとめた。この日も何人かは和樹の元に寄ってはきたが、中学生ともなるとある程度の自制はしてくれて、月曜日ほどの騒ぎにはならずに済んだ。 「はい、どうぞ。」生徒たちもいなくなり、和樹を含めた何人かの講師が黙々と作業をしていると、誰かが和樹のデスクに栄養ドリンクを置いた。「お近づきの印に。」  振り向くと、今日出勤した時に挨拶だけ交わした、小嶋がいた。小嶋は挨拶の後、すぐに上のフロアに行ってしまったため、ゆっくりとは会話していない。少し猫背気味のひょろりとした男だった。久家が「3人で脱サラして」と言っていたので、なんとなく久家や早坂と同世代だと思い込んでいたが、彼らよりも老けて見えた。現段階では、介護疲れでそう見えるのか、実年齢相応なのかは判断つかない。 「今日が、二日目でしたっけね。」と小嶋が言った。 「はい。」 「初日よりは、慣れましたか?」 「そう、ですね。でも、まだ無我夢中で、よく分かりません。」 「そうですか? もう生徒と随分慣れ親しんでるみたいだったけど。笑い声が隣の教室まで聞こえました。僕、隣で中3指導してて。」 「あっ、すみません。うるさかったですか。」 「やぁ、大丈夫。でも、そろそろね、中3はピリピリしてくるから。」 「すみません。」 「僕のほうも、いろいろ迷惑かけてると思うけど。希望の教科やシフトもね、僕の都合に合わせて融通してもらったようで。」 「いえ、大丈夫です。」 「何年生だっけ?」 「大学ですか? 1年です、まだ。」 「入ったばかりなんだ。一人暮らし?」 「はい。」 「じゃあ、もうちょっとシフト入れたいよね、本当は。」 「それは、まあ。でも、まだ慣れてないし、週2でやっとなんで。」 「そう。ま、その件は、追々話し合って、考えましょう。」 「はい。」 「小嶋先生。」その時、久家が現れた。大きな封筒を何枚か持っている。「○○高校の話、大丈夫そうですかね。」 「江田さんでしょ。大丈夫ですよ。あとは10月11月の模試で実力出せれば間違いない。」 「でもまだ親御さんには言わないほうがいいかな。」 「そうだね、父親は都立って言ってんでしょ。」 「ええ。」 「そっち解決してからだね。」 「ですよね。じゃあ、それで進めて行きます。」 「はい、お願いします。」  久家が去っていく。 「今のは、高校の推薦入学の話。塾も推薦枠持ってるって知ってる?」 「え、そうなんですか。」 「そう、一部の私立高ね。学力的な実力はそこそこあるのに、学校の内申じゃ推薦基準クリアできないって子はね、内申の代わりに、塾で受けた全国模試の結果で推薦取れることがある。」 「そうなんですか。」 「だから、僕たちも、そういう対応してくれそうな高校に行って、うちの生徒をよろしくって営業するんですよ。」 「ああ、教室長のおっしゃっていた営業って、そういう……。生徒募集のほうばかり考えてました。」 「もちろん、それもあるけどね。生徒募集にしても、うちみたいな弱小の塾はテレビコマーシャル流せるわけでもないしさ。細々と合格実績上げて、塾の前とかポスティングのチラシとかに、地元から通える範囲の高校に合格したって載せるのが、結局一番宣伝効果が高いんだよ。」 「授業だけじゃないんですね。」 「うん、そのチラシ作るのだって自分たちでデザインからやるからね。経費節減で。」

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