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第261話 Boy meets boy(1)

 こうして和樹の塾講師アルバイトがスタートして、受け持ちの生徒の名前と顔が一致したのは、1ヶ月後のことだった。その頃には講師業にも少しは慣れて精神的には楽になってきたものの、時間的余裕はなかった。その間に、涼矢と前後して大学の後期も始まり、更には学園祭を控えてサークル活動も活発化して、アルバイトのない日は大学に残ってそちらに参加する日がグンと増えたせいだ。結果として涼矢とは挨拶程度のメッセージの往復だけで終わる日もあったが、お互いにそれを不満とも思わず、時は過ぎて行った。  こういった忙しさは、和樹は嫌いではない。ぼんやりと時を過ごすほうが苦手で、それなら他人に頼まれてやるにしても、何かしら体を動かしているほうが好きだった。だったらまず部屋の掃除や、たまった洗濯物を片づけろと涼矢から小言を言われそうだと思いつつも、やはり、やったところで誰が評価してくれるわけでもない自室のことよりも、他者から感謝されたり褒められたりする作業のほうを優先してやってしまう。そのせいで、ほんの1ヶ月で、和樹の部屋は涼矢がいた頃の面影はなくなり、散らかり放題に戻ったのだが、それはそれで地元の自分の部屋のようで、和樹にとっては「安らぎの場」ではあった。 ――どうせ月末には、また、涼矢が来るし。来たら、文句を言いながらも、掃除してくれるだろうし。  そんな本音は口が裂けても言うまいと思うが、つい、思ってしまう。 ――俺だって別に、あいつを家政婦代わりに思ってるわけじゃない。その証拠に。  和樹は数日前に、ペアのグラスを買った。涼矢がいた時には買いそびれたガラスのコップ。1個は元々あったから、1個追加すればよかったのだが、どうしても似たようなグラスが見つけられず、結局ペアで売っていたものを買った。  10月に入ると一気に秋めいて、日によっては厚手の上着が必要な日もあった。涼矢が地元に戻ってから、まだひと月ほどだというのに、2人で訪れた浅草や六本木の猛暑を思うと、もっと長い時間が過ぎた気がした。  そんな風にめまぐるしく変わっていく日々の中の、ある日のことだ。 「都倉先生、今日から小6に1人、新メンバーです。あ、その子は先週から来てますけどね、都倉先生のクラスは今日が初めて。金曜日の様子だと授業にはついていけているみたいです。」菊池が言った。この日は小6が全員共通の授業を受ける水曜日だ。菜月のように応用クラスを取っている子は、月曜日と、この共通授業の水曜日の週2回通う。その新入りは金曜日の普通クラスなのだろう。 「はい、分かりました。」  塾の学年の区切りは4月ではなく2月だ。その時期に一番生徒が増える。次に増える時期は4月と9月だ。春期講習や夏期講習で塾との相性を確かめて、そのまま正式に入塾するケースが多い。それに比べると、10月に入るというケースはさほど多くない。塾の授業は学校の進度よりやや先回りした内容になるので、他の子より出遅れている分を考慮して授業をしなければならない。和樹はまだ経験していないが、他の講師を見ていると、あまりにも他の生徒と実力が乖離している場合は、授業の前後に無料で補講を行うこともあるようだ。大手の進学塾だとそうはいかないだろう。この規模だからできるフォローだ。菊池がわざわざアナウンスしたのは、そういった事情をふまえてのことだ。  和樹は小6の教室に入ると、真っ先に見慣れない顔を探した。一番後ろの一番端の席に、その子はいた。だが、それは見慣れない顔ではなく、「見覚えのある顔」だった。 「あれっ、明生(あきお)?」  反射的にその名前が口をついた。呼ばれた男の子も目を丸くして和樹を見た。「こ、こんにちは。」蚊の鳴くような声でそう返してきた。  和樹は慌てて手元の名簿を見た。一番下に追加された名前は、「塩谷明生(しおや あきお)」となっている。間違いない。夏に水泳教室で教えた子だ。一番泳力が伸びて、カナヅチに近いところから10日間で25メートル泳げるようになった、努力家の男の子。和樹の中ではそういう印象が残っている。菜月に引き続き2人目の「元教え子」というわけだ。  和樹は、菜月が学校では明生と同じクラスだと話していたことも思い出した。菜月としては他の塾生に対して、いかに自分が都倉先生と親しいかをアピールしたかったのだろう、「カズキっちは、明生のことも知ってるでしょ。私、明生と同じクラスなんだよ」などと、和樹との共通の話題として、わざと明生の話も出してきたことがあったのだ。その菜月の姿が見えないことを気にしつつ、和樹は授業を開始した。  授業を終えて自席に戻り、次の授業の準備に取りかかっていると、明生がきょろきょろしながらやってきた。間もなく和樹の姿を見つける。 「先生。」はにかみながら、明生は和樹のすぐ近くまで寄ってきた。 「おう、明生、久しぶりだな、元気?」 「はい。先生、この塾の先生なんですか?」

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