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第1014話 After a storms(6)
「あ、俺、そろそろ行かないと」
海がスマホで時計を確認する。
「俺も」
偶然二人して取っていた講義が急に休講になったおかげでできた空き時間だった。次の講義は別々で、和樹が受ける教室はここからは少し離れた棟にある。そこまで行くのを面倒がりつつ、涼矢の大学の三分の一にも満たない敷地面積のくせに、などと思う。このこじんまりとしたキャンパスで、知り合いに会うことはめったにないが、涼矢の大学に遊びに行ったときには千佳や響子、果ては高村とまで偶然顔を合わせた。神様はいつも気まぐれだ。
「どっかで聞いた声がすると思ったら」
喫煙スペースから移動しようとしたその矢先に、背後から追い抜く形で男が現れ、かと思うと和樹の顔を確かめるように振り向いた。その顔は忘れようにも忘れられない。
「香椎先輩じゃないっすか」
無邪気に反応するのは海のほうだ。誰が誘うでもなく三人横一列になって歩き始める。
「ええと、鈴木くんだっけ」
「違いますよー、渡辺のほう」
「あはは、そうだった。ごめん」
「量産型の名前だから仕方ないですけど、さすがにそろそろ覚えてくれても」
「だよね、今度から気を付けるよ、佐藤くん」
「今のはわざとでしょ」
「そっちこそよくこんな幽霊部員の名前まで覚えてるよね」
「当然のことですよ」
そこで香椎はちらりと和樹を見た。
「そっちの彼は覚えてる。都倉くん」
「あ……はい。ご無沙汰してます」
「うわ、なんで都倉は覚えてるんですか」
「だって目立つもの」
「そりゃそうかもしれないですけど」海が立ち止まり、左の校舎を指した。「俺、こっちなんで」
「うん。またね」
「たまには部室にも顔出してくださいよ」
「了解、高橋くん」
「だーからー」
そう言いながら、海はフェードアウトしていった。
「……これから三限ですか」
「うん、今日はゼミだけ」
「そうですか」
会話は続かない。続ける気にもならなかった。
「元気だった?」
唐突な問いに「誰が?」と思わず聞き返した。
「誰って、君が」
「元気ですよ」
香椎がふは、と軽く吹き出した。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。僕はただのサークルの先輩、だろ?」
「警戒なんか」
「してるよねえ?」
「……すみません」
「いいよ、安心した」
「安心?」
「僕を警戒するってことは、うまく行ってるってことだろ?」
「まあ、うまくは行ってます」
「それは何より」そこで今度は香椎が立ち止まる。「じゃあ僕はここで」
「はい」和樹は一礼の後にその場を立ち去ろうとして、踏みとどまる。「あ、あのっ」
「ん?」
「香椎さんは、その、うまく行ってるんですか。同棲してる人と」
「それ聞いちゃう?」
「聞いちゃったら悪かったですか?」
「ちょっとね。今、追い出され中なもんで」
「え」
「これが原因」香椎はポケットの煙草を指さす。「向こうは嫌煙家でさ、部屋は禁煙ってルールなんだけど、僕が破っちゃって」
「それだけのことで?」
「それだけのことなんてないんだよ。僕にとってはちょっとしたことでも、向こうにとってはおおごとだった。……というのを、三回もやらかしてようやく気付くような人間なので、追い出されても仕方がない」
「三回ルール違反したんですか?」
「そう。もちろん目の前で吸ったわけじゃないよ? 留守中にね、今ならいいだろうと思ってこっそり。でも、吸わない人って匂いに敏感だから、すぐバレちゃった」
「三回もやるからですよ」
「だよね。でも、二回は許してくれたから、今回も大丈夫だろうって勝手に思い込んじゃった」
「……今回も許してもらえるといいですね」
「うん。ありがとう」香椎は笑う。「実は、謝るのに飽きてきたところで、もういいやってなりかけてたんだけど、もうちょっと頑張る気になったよ」
悪いのは香椎なのに「飽きた」とは。のどまでそんな言葉が出かかった和樹だが、相手は先輩だし、それ以上に「深く関わりあいたくない相手」だ。わざわざ痴話喧嘩に首をつっこむ必要もない。
「じゃ、俺、次、九号館なんで」
「それは大変だ。急げ」
最後は頷くだけの返答で、香椎に背を向けた。
――知り合いに会うことはめったにないと思ったらこれだ。気まぐれにも程があるよ。
神様に悪態をつきながら、和樹はキャンパスの端に位置する九号館へと急ぐ。それからこんなことも思った。
――香椎さん、煙草なんか吸うんだな。
足が悪く、放課後の美術室でひとり絵を描く、物静かな美術部員。
涼矢から聞いていた中学生の香椎のイメージは、はかなげで病弱そうな少年だ。学祭後に初めて目の当たりにした本人は、想像よりは寡黙ではなかったが、姿形としてはそう外れてもいなかった。でも、煙草は似合わない、と思った。ましてやそれが原因で恋人と喧嘩をして追い出されるなんて。
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