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第1016話 contrail(1)

 羨ましいな。涼矢がそう言ったのは、和樹の部屋に来て、二日目の晩のことだ。 「どこがだよ。俺は今からすげえ緊張してるよ」  和樹が答えた。 「違うよ、生徒のほう。都倉先生の授業が受けられるんだろう?」  教育実習の希望を母校に伝え、無事に内諾を得られた。そんな話を涼矢にしていたのだ。母校とは、すなわち二人が出会った思い出の、あの高校だ。 「逆になんか気が引ける。俺なんかでいいのかなあって。なあ、俺たちの頃も教育実習生なんか来てたか? 俺、全然記憶にないんだけど」 「いたよ」 「そうだっけ」 「奏多の相手がそうだろ」 「あ、そっか」  和樹は今や顔もおぼろげにしか思い出せないカオリに思いを馳せる。美人だったのだと思う。だから年頃の男子の間では抜群の人気を誇っていて、卒業式の打ち上げをしたあの日、奏多の発言にみんな驚いたのだ。でも、顔も思い出せないカオリがどんな授業をしていたかについては、まったく覚えていない。そのくせ彼女が堕胎した事実だけははっきりと覚えている。 「小学校の先生、頑張ってるかな」  和樹は悲しい記憶を打ち消すようにそんなことを言った。 「さあ。その後は聞いてない。金は返してもらった」 「え、そうなの」  堕胎費用を貸してくれ。奏多の頼みに、涼矢は貸すのではなく与えた。縁切りを通告するみたいに。それを察したらしい奏多は、これからも友達でいたいと言ってたっけ。 「連絡はなかったんだけど、ポストに入ってた。いつだったかな。だいぶ前だよ」 「家まで来て、会話もしてなかったんだ?」 「ああ。向こうも気詰まりだったんだろ。それでもきっちり返してくるあたり、あいつらしいよ。別に返してもらわなくてもよかったんだけどね。それ言うためにまたこっちから連絡するのもだるかったから、そのまま」 「そっかぁ」 「何、カオリ先生に教育実習の体験談でも聞きたいの」 「そういうわけじゃないよ。つか、聞けねえよ。何も知らなかったら聞けたかもしれないけど」 「わざわざあの人に聞かなくても、宏樹さんに聞けばいいしな」 「……あ、そっか」 「え、気づかなかった?」 「忘れてたよ、そうだ、兄貴も実習経験者だよな」  和樹は笑い、涼矢もつられて笑った。 「実習どころか、本物の現役教師だろ。今や実習生を受け入れる側だろ」 「そうだよなあ。……でも、兄貴とは出身高校違うし、今先生やってるのは母校でも何でもない私立校だし」 「母校じゃないとダメなのか?」 「そんなことないよ。受け入れしない学校もあるし、したくないって人もいるし」 「和樹は母校でしたかったんだ?」 「まあね。勝手知ったるとこでやるほうがいいかなって」 「でも、先生だって結構入れ替わってるよ。校舎も建て替えたらしい」 「そうなの?」 「うん。あ、建て替えは体育館だけだったかな。詳しくは忘れた」 「そうなんだ。でもま、やっぱ、大切な思い出のある学校なんで」  含み笑いをする和樹に、涼矢は素っ気なく「ふうん」とだけ言ったが、嬉しさを隠しきれないでいるのを和樹は見逃さない。 「おまえにとってはそんなにいい思い出でもないのかなあ?」  和樹はわざと言う。 「なんでそうなるんだよ。そんなわけないだろ。最高に良い思い出ですよ」 「でもそれは卒業したあとの話でしょ。高校生の間はひとり悶々とストーカー活動をするしかなく……テッ」  涼矢が和樹の額を指で弾いた。いわゆるデコピンだ。 「別に恋愛だけじゃないだろ、高校生活って」 「……まあ、そりゃそうだけど」 「普通に楽しかったよ。部活も文化祭も体育祭も」 「楽しそうにしてる田崎くんの顔はあんまり見たことないけどなあ。あ、旧姓田崎くんか」 「顔に出ないだけ」 「旧姓にはつっこまないのかよ」 「どっちだっていいって」 「大学では深沢にしたんだろう?」 「書類上はね。でも、前からの知り合いは田崎のままだよ」 「へえ。千佳ちゃんも?」 「千佳たちとはほとんど会わない。もともと学部違うし」 「そりゃ淋しいねえ」 「別に……」そこで涼矢は顔を上げる。「あ、そう言えば」 「なに?」 「あいつ、帰ってくるらしい。哲」 「げ」 「ははっ」 「何故笑う」 「だって俺より嫌そうな反応」 「そりゃ嫌だろ」 「見送りまでしてやったくせに」 「そういやそうだったな」  空港まで行って哲を見送ったのは、そうか、一年近くも前のことか。和樹は少しだけ感傷的な気分になる。

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