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第265話 Boy meets boy(5)

 自分の部屋に戻ると、ノートパソコンがスリープモードになっていることに気付いた。和樹と電話する直前までレポートをやっていて、そのままだったのだ。ノートパソコンとは別に、趣味の絵を描くためのパソコンもある。こちらはもう1ヶ月以上触ってもいない。サークル活動もアルバイトもしていないのに、勉強に追われ、時間が足りない。もちろん進級するための勉強だけでいいなら、もっと余裕はある。やってもやっても追いつかない気になってしまうのは、奨学金給費生のポジションの維持と、司法試験のための勉強をやっているせいだ。  涼矢は自分のことを、哲のような天才型ではないと分析している。和樹のように楽天的な性格でもない。自分にできるのは努力することだけだ、と思っている。それに、脇目も振らずに勉強している間は、和樹と会えない辛さも少し紛れる。  おまえは、何でもできるな。  おまえなら、何でもできるよ。  和樹が涼矢に向けて口にするそれらの言葉は、そんな涼矢にとっては、プレッシャーでもあり、支えでもあった。  ――和樹にとっては、なんてことのない日常の一言なのだろうけれど。  涼矢はノートパソコンの前に座り、レポートの続きを打ち込み始めた。和樹の部屋でやっていた、ジェンダー学のグループワークのレポートは既に返却されている。A評価だった。同じグループの哲と、女子2名と祝賀会と称して食事をした。女の子たちは哲も涼矢もゲイであることを知っているが、それについて特段の興味関心は示さずにいた。あるいは、示さないように心を配っていた。おそらく後者なのだろう、と涼矢は感じていた。何故ならそもそも「ジェンダー学」なる学問を選択して、前方の席で真面目に講義を受けている、数少ない学生だったからだ。彼女たちが2人のそういった側面に関して言及したのは、レポートをまとめる際に、自分たちが担当した箇所について「あなたたちの立場として、不愉快な表現や不正確な表現があれば指摘してほしい」と言った、その時だけだ。そして、そういった表現はひとつも見られなかった。更に言えば、その祝賀会以降はうんと親しくなったのかと言えば、そんなこともなかった。グループワークを一緒にやる以前と同じく、キャンパスで会えば挨拶程度の会話をして、誰かが欠席すればノートの貸し借りをして、タイミングが合えば学食で一緒にランチをするのも厭わない、そんな程度のつきあいが続いていた。ランチをする時に堅苦しい講義の話題しかしないわけでもない。音楽や映画の話だってする。要は普通の友達だった。  和樹にも、そういう友達ができればいいのに、と思う。1人でも2人でも構わないから。ミヤさんはいるけれど、彼は少し目立ち過ぎる。自分のことを分かってくれた上で、こんな風に、普通に、自然に、接してくれる人。涼矢は、隣の席でカツカレーを食べている河合千佳(かわい ちか)のスプーンを見つめながら、そんなことを思った。 「あ、ごめん。」千佳は、今度はカツの部分を食べようとしてスプーンを箸に持ち替えながら言った。千佳は左利きのようで、涼矢の右手とぶつかりそうになった。「席、交替しよっか?」 「大丈夫。」涼矢は少しだけ椅子をずらして、千佳から遠のいた。 「それじゃ避けられてるみたい。」千佳は笑った。 「でも、そっち、狭いから。千佳が良いなら、今のままの方が良い。」千佳は、建物の梁が出張っている席で、涼矢の身長では窮屈だ。昼食時の学食は混雑しており、他の席が空いてなかった。向かい合わせでなく隣り合って座っているのもそれが理由だった。 「そう? ごめんね、気を付ける。左利きって、こんな時ちょっと面倒なんだよね。」  哲も左利きだよな、と言おうとしてやめた。違う、左利きなのは倉田だ。だから哲の左側に座っていた。 「字を書くのも左だよね。ハサミも左利き用?」 「うん、うちにあるのは左利き用。でも、ない時は普通の使うよ。使いにくいけど、一応、両方使える。あと書道は右で書いてたかな。トメとかハライとか、やっぱり右利き基準だから、親に言われて、右で書けるように練習して。」 「へえ。」 「不便だけど、便利なこともある。」 「何、それ。」 「パソコンしながら字が書きたい時ってあるじゃない? レポート作る時とか。そういう時に、右手でマウス操作して、左手で字が書けるんだ、私。」 「ああ、それ、いいな。俺も練習しようかな。」涼矢は持っていた箸を左手に持ち替えてみる。全然思うようには動かなかった。「いきなり箸はハードル高いか。」 「最初はスプーンだよ、せめて。」千佳は笑った。「涼矢くんはたまに面白いよね。」 「え?」 「初めてワーク一緒にやろうってなった時、もっと暗いっていうか、笑わない人かと思ってた。哲ちゃんがほら、ああだから、余計ムッツリして見えたし。」グループワークのメンバーを引き合わせたのは哲だ。 「まあ、基本的に暗くてムッツリなのは、間違ってないよ。」  千佳はまた笑った。「そういうとこ。面白い。」

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