269 / 1020

第269話 Boy meets boy(9)

 涼矢の足が止まった。もうひとつ角を曲がれば、アリスの店が見えてくる場所だ。  一歩前を歩いていた涼矢は、振り向いて後方の2人に言った。「店、もうすぐ着くけどさ。まず、店の外見がちょっと変だけど気にしないで。中はまあまあ普通だから。でも、オーナー店長は、外見も中身もあんまり普通じゃない。良い人だけど。」 「今、それ、言うか? 大丈夫なの? 俺、すっかりその気で、履歴書から銀行の通帳からハンコまで持ってきちゃってるのに。」 「おまえには最適だと思う。」 「ホントかよ。」 「ああ。」 「楽しみ。」1人だけニコニコと上機嫌なのは千佳だ。  この日、涼矢は初めてきちんと店名を見た。「Wonderful World」。アリスの物語の「Alice in Wonderland」をもじっているのか、店内でかかっていたジャズのナンバーからとっているのか、どちらとも無関係なのか、定かではない。  店に入ると、アリスが飛んできた。 「涼矢くん、こんばんは。早速来てもらって嬉しいわ。こちらがその、お友達ね? さっちゃんから聞いたわ。働きたいのはどちらかしら。」 「こっちの、男のほうです。」涼矢は哲をチラリと見た。「哲……あれ、おまえ苗字なんだっけ。」 「麻生哲(あそう さとし)です。(さとし)は、哲学の哲って書くんで、みんなからはテツって呼ばれてます。」哲は自分でアリスにそう名乗った。 「(テツ)くんね。私はこの店をやってる、有栖川です。お気軽にアリスって呼んでね。あ、でも、哲くんは、スタッフになったら、恭しく店長って呼ぶのよ? まあ、今日はとりあえずのんびりと楽しんでいって。」アリスはそう言って、「Reserved」のプレートのあるテーブル席に案内してくれた。 「こちらは、哲くんのガールフレンド?」冷水とおしぼりを置きながら、アリスは千佳に微笑みかけた。 「いえっ、違いますっ。」千佳は両手をぶんぶん振って否定した。「私は2人と、同じ講義取ってて、ま、そういう友達です。単なる。」 「そう、単なる友達の千佳ちゃんです。」哲がアリスに屈託なく言う。それから、涼矢をチラリと見て、小声で聞いた。「ゲイってこと、言っておいたほうがいいのかな?」 「俺がそうだってのは知ってる。」 「そっか。じゃあ、俺も。」哲はテーブルの脇に立つアリスを見上げて言った。「俺、ゲイなんですよ。そういうの、何かネックになるなら今のうちに断ってください。」 「あらまあ。じゃあ、涼矢くんのほうのお相手?」 「違います。」若干かぶせ気味に涼矢が否定した。 「なんだ、違うの。」 「単なる友達です。」冷たい言い方に、涼矢以外の3人が笑った。 「本当は、親友です。心の友です。」と哲が言った。 「やめてくれ。」 「違うのかよ。」 「違うだろ。」 「まあまあ、仲が良いのは分かったわ。まずは何か食べたら? お腹空いてるんでしょ?」 「もし採用してもらえるなら、いつから働けますか?」哲がアリスに聞いた。 「先にその話をする?」 「できれば。」 「そう。んー、じゃあ、哲くんだけこっちで話しましょうか。2人は適当に食べててね。」  アリスは哲を連れて、一番目立たない奥の席へと移動していった。2人の会話は、涼矢たちの席からでは何ひとつ聞こえない。ということは、こちらの会話も彼らには聞こえないだろう。  残された千佳と2人、適当に料理と飲み物を頼んだ。千佳は遠慮して哲を待つ素振りを見せたが、それに気づいた涼矢が、「気にしないほうが哲も話しやすいと思う」と言ったのに納得して、一緒に食事を始めた。 「お母さんの知り合いっていうのが、あの、アリスさん?」千佳が言った。 「うん。」 「おもしろそうな人だね。」 「うん。波乱万丈な人生だったみたい。昔はラグビー選手で。あ、あの人、男だから。」 「……やっぱり? そうじゃないかなとは思ったんだけど、違ったら失礼かと。」 「女装しているだけで、奥さんもこどももいるってさ。」 「へえ。」千佳はそっとアリスを窺い見た。「確かに、哲ちゃんにぴったりの職場かもね。」 「だろ。」 「ところで、2人は、全然つきあったこと、ないわけ?」千佳は急にそんなことを聞いてきた。 「は?」 「哲ちゃんさ、最初は涼矢くんに猛アタックしてたじゃない? 何もなかったの?」 「ないよ。」 「じゃあ、本当に単なる友達なんだ。」 「そうだよ。なんだよ、急に。」 「いいなあって思って。」 「何が?」 「私さ、高校の頃、響子のこと、ちょっと好きだったんだよね。」 「え。」涼矢の手が止まる。先日宏樹が食べていたあんかけ焼きそばだ。 「ものすごく好きってわけじゃないんだ。恋に恋するみたいなところもあって。その前は男の子を好きになってたし、つきあったりしたこともあったんだけど、なんかね、男の子って怖くて。特別なトラウマがあるわけじゃないんだ。三姉妹の末っ子のせいかな、どうしても、1対1になると、身がすくむっていうか。大きい声だったり、あと、男の人って、時々物を放り投げるように置いたりするじゃない? ああいう動作とかも怖くて。つきあった子もね、優しい感じの子だったんだけど、慣れてきて、そういう男性的な仕草が目に付くようになると、ダメでさ。恋愛対象は男性なのに、うまく付き合えないわけ。」 「そっか。」

ともだちにシェアしよう!