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第272話 Boy meets boy(12)

 千佳はきょとんとした顔で涼矢を見た。千佳がそんな顔をすると、それこそ、生まれたての小鹿のようなあどけない表情に見える。それから千佳は、にっこりと笑った。「伝わった。うん、そうだね。……響子は時間にはルーズなところもあるけど、根はすごく真面目なタイプで、今のこの時代に、シェイクスピアって素敵だよね、なんて本気で言うの。出席してれば単位もらえるって噂の先生の講義でも絶対手を抜かない。私は英文学なんて全然興味なかったけど、響子の好きな世界を私も知りたくて、ここまで来ちゃって、響子が勉強するから私も勉強してる。じゃないと響子と一緒に笑ったり、感動したり、できないから。哲ちゃんね、勝手にうちらの学部の講義に潜り込む時があるの。それで響子とリア王について語りあったりしてるの。信じられる? 真剣にだよ? でも、2人がそんな話してる時、すごく楽しそうでね。私も負けてられない、私もあんな風に語りたいって思うんだ。だから結構、真面目に勉強してる。」 「うん。分かるよ。」以前の自分なら分からなかったかもしれない。興味や知的好奇心なんてものは自分の内側から湧きあがるべきもので、誰かに好かれたくて手を出すのは邪道。そんな思いが、以前はあった。けれど、和樹が涼矢の好きな物を一緒に見たい、知りたいと言ってくれたから。好きな人の好きなものを自分も好きになりたい。そういう愛があることを、教えてくれたから。 「見てくれてる人って、いるもんだねえ。」少し老けた物言いで、千佳が言った。「響子は純粋に自分の好きなことを追求しているんだろうけど、私は響子にひっぱられているだけ。それでも、結構頑張ってるつもりでね。でも、そんな努力、誰にも気がついてもらえないだろうって思ってた。私がどんなに頑張っても、いつも響子のほうが成績良いしさ。ジェンダー学、あれね、あれだけなの、私が自分からこれ受けたいって言ったの。そしたら響子も履修するって言ってくれて。今、涼矢くん、私の質問が良かったって言ってくれたけど、私、大学入って初めてだよ、人に褒められたの。」 「見てる人は、いるよ。哲にしたって、だから、千佳たちのことグループに誘ったんだ。あいつ、男を見る目はどうかと思うけど、女を見る目は確かなんじゃないかな。」涼矢が言うと、千佳が笑った。 「涼矢くんがそういうこと言うと、冗談なんだか本気なんだか、分かりづらい。」 「両方。」  千佳はまた笑った。  その時、哲たちのテーブルにコック帽を被った男が慌てた様子でやってきて、何やらアリスに耳打ちをした。すると今度はアリスが哲に何か言い、哲がうなずいて立ち上がった。哲はそのままコックに連れられ、厨房へと消えて行った。あっという間の出来事で、涼矢も千佳も何が何だか分からずポカンとしていると、アリスが涼矢の許にやってきた。 「哲くんに、今から働いてもらうことになっちゃった。」 「ええっ。」千佳が大きな目を更に大きくする。 「急に食器洗い機が故障しちゃったのよ、申し訳ないけど皿洗いお願いしたわ。あっ、もちろんバイト料は払うし、ご飯はちゃんと後で食べさせてあげるからね、心配しないで。」 「俺も、手伝いますか?」 「いい、いい。1人で充分。洗い場にはうちの息子もいるから。せっかくのディナーなのよ、レディーを1人にできないでしょ。」アリスは千佳にウィンクする。 「じゃあ、私が洗いましょうか?」千佳が冗談めかして言った。 「だめよぉ、手がガサガサになっちゃう。だから私もお皿は洗わないの、ふふっ。」アリスは大きな指輪をつけた、しかし節くれだったゴツゴツした手を涼矢たちに見せびらかすように見せた。 「何時までですか?」 「彼の都合の良い時間までで構わないとは言ってあるわ。お店自体は12時クローズで、片付けもあるけど、それじゃ電車なくなっちゃうでしょ。」 「俺が車で送るから。」千佳のほうも見る。「千佳もね。千佳は何時まで平気?」 「哲ちゃんちと方向違うし、私は電車で帰るよ。気にしないで。ただ、電車がね、8時ぐらいにはここ出ないとなくなりそう。うち、○○線なんだ。」千佳は本数の少ないローカル線の名前を挙げた。 「じゃあ、先に千佳だけ送って、戻るよ。」  何か言おうとする千佳を制して、アリスが言った。「それがいいわ。」 「いいの? 大変じゃない?」 「全然。」涼矢はアリスに向きなおった。「哲に声かけてきていいですか。」 「どうぞ。」  涼矢はバーカウンターの奥の厨房に顔だけつっこむようにして、哲を探した。客席も外観の割に広いが、厨房もまた意外に広い。さすが中華料理からスリランカ料理まで出す店の厨房だ。哲の姿は左奥のシンクのところにあった。隣にいる男がアリスの息子だろうか。2人とも後ろ姿しか見えない。 「哲。」涼矢が声をかけると、息子らしき青年がちらりと涼矢を見た。年は自分たちと同じくらいか、もっと若いかもしれないように見えた。アリスの厚化粧を取らないことには、父親似かどうかは分からないが、体格は父親譲りのがっしりとした逞しさだ。彼は哲に顎をしゃくって見せた。「行って良いぞ」の意味だろうか。哲は借り物のエプロンで手を拭きながら涼矢のところに来た。

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