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第273話 Boy meets boy(13)
「帰り、車で送ってやるけど、何時までいる?」
「え、マジで。だったら、ラストまでいたいんだけど。バイト代くれるって言うから。」
「じゃあ、千佳を先に送って、戻ってくる。」
「了解、サンキュ。」哲は、おそらく無意識に、またエプロンで濡れてもいない手を拭く仕草をした。涼矢の視線がその腕に釘づけになる。哲は皿洗いのためだろう、シャツの袖を肩の近くまでまくり上げていた。そうして腕が露わになると、左腕の内側には、例の傷痕がはっきりと見えた。明らかに刃物で切りつけた痕だ。白い筋もあれば、ところどころケロイド状に盛り上がったまま固まってしまっている箇所もあった。そんな傷が、少しずつ位置を変えて、幾筋も這っている。涼矢の視線の先に、哲も気付いた。「ああ、これね。若気の至り。今は痛くも痒くもない。あ、いや、たまぁに痒くはなるけどさ。心配すんな。」こともなげにそう言った。
「心配はしてねえよ。」
「……ホントは、前から知ってただろ?」
何も答えない涼矢に、哲はニッと笑いかけると背を向けて、元のシンクのところに戻っていった。背を向けたまま、後ろ手にバイバイをした。
涼矢は千佳の待つ席に戻った。2人分の食べ終えた皿は下げられていて、注文した覚えのない紅茶が置いてあった。千佳の前には更に小さなケーキがある。
「それ、サービスね。紅茶で良かった?」
「あ、はい。ありがとうございます。」涼矢はぺこりと頭を下げながら、ティーカップを手にした。ベルガモットの香りがする。
「ごめんね、ケーキは可愛い女の子だけよ。」そんなアリスの言葉には、無言で笑って返した。
「私、やっぱり電車で帰るよ。何往復もするの大変だろうし。」千佳が言う。
「大丈夫だって。」
「じゃあさ、せめて、これいただいたら、すぐ出る。遅くなると、涼矢くん、立て続けの運転になっちゃうでしょ。」
「いいのに。それとも、俺の運転が不安?」
「そんなことないよ。」千佳は笑い、ケーキを頬ばった。「うーん、ケーキ、美味しい。お料理もすっごく美味しかったです。」千佳は満面の笑みを浮かべてアリスに言った。
「あら、ありがとう。シェフに伝えておくわ。中華の鉄人兼、フレンチの巨匠兼、エスニックの伝道師兼、我がワンダフルワールドが誇るパティシエに。」
厨房には哲の他に2人いた。シェフというのは、さっきアリスに食洗機の故障を伝えに来たコック帽を被っていた男だろう。息子のほうは、前回来た時に「調理見習い」と言っていたと思う。
「息子さんもコックさんなんですか?」偶然にも千佳がそんなことを質問した。
「修行中といったところね。昼間は調理師の専門学校行ってるわ。」
そんなことを言っているうちに千佳はケーキを食べ終わり、さっさと上着を着ると、バッグから財布を出した。「じゃあ、涼矢くん、悪いけど送ってもらえる? 私、いくら?」
「あ、それは。」涼矢は言いかけた。そう言えばここの支払いはどうするつもりだったっけ。自分が奢る筋合いではないと思うが、千佳に払わせるのも悪い気がした。「今日は俺と哲につきあわせたんだし、いいよ。」
「ダメよ、私が勝手についてきたんだから、それはダメ。」千佳が千円札を2枚ほど手にしたのが見えた。
「いいわ、私の奢り。」アリスが言った。
「ダメです、自分の食べた分は払います。ケーキと紅茶はお言葉に甘えますけど。」千佳は一方的にそう言い、アリスに2,000円を突き出した。
「いいのよ。せっかくお友達と楽しむために、こんな場末の店まで来てくれたのに、哲くん借りちゃったし。そのお詫び。」
千佳が戸惑っていると、涼矢が言った。「じゃあ、その分は哲のバイト代から引いておいてください。なんなら、俺の分も。」
「あ、それもいいわね。」アリスは笑って、お札を手にした千佳の手を、やんわりと下ろさせた。
「哲ちゃん、かわいそう。」そう言いながらも、千佳もおとなしくお金を財布に戻し、一緒になって笑った。
それから涼矢は千佳を車で送った。乗りこむ時、涼矢は後部ドアを開けて、千佳を後部座席に座るように促した。母親はともかく、それ以外の人物を助手席に乗せるとしたら、まずは和樹だ。
走り出してしばらくすると、「お父さん以外の男の人が運転する車に乗って、しかも2人きりなんて、初めて。」と千佳が言った。
「あ、そうか。ごめん、やっぱり電車のほうが良かった?」男性的な動作が苦手というのと、男性恐怖症との違いは、涼矢には正直分からない。そんなにガサツな所作はしていないつもりだけれど、そこまで気にしたことはない。どちらにせよ、男性的な外見であり、声だって動作だって男性のそれで、哲のようににこやかでもない自分と、こんな狭い空間で2人きりというのは、千佳のような子には緊張を強いるものなのだろう。涼矢は夜道を女の子1人で帰すわけにはいかないと、そればかりを気にしていた自分を反省した。
「ああ、ううん、違うの。大丈夫。」涼矢からミラー越しに見える千佳の表情は、それでも普段よりは少し硬いようだ。無意識だろうが、身を守るようにバッグを抱え込んでいる。「涼矢くんは、もう大丈夫。平気。」千佳はもう一度そう言った。涼矢に、と言うよりは自分に言い聞かせているようだ。「逆に、ごめんね。気分悪いよね。」
「いや、俺は別に……怖がられることは、よくあるし。」
千佳が笑った。それを見て涼矢も安堵した。
ホッとしたのも束の間、今度は突然「哲ちゃんの代わりに、涼矢くんとキスしたら、ふっきれるかな。」と千佳が言い出した。
涼矢は眉をピクリと上げて再びミラー越しに千佳を見た。千佳のほうも涼矢の表情を見た。
「好きな奴とじゃなきゃ、意味ない。」涼矢は正面に視線を移し、ハンドルを切る。
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