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第278話 non-alcoholic(4)
「でも、嫌だ。」
「俺を連れ込んだら、都倉くんに悪いから?」
「連れ込むなんて言い方するなよ。ますます嫌になる。」
「こんな時間に叔父さんちに帰ったら、俺も叔父さんたちに嫌な顔されるんだよ。」
「今までのバイトだって、このぐらいの時間に帰ってたんじゃないの。」
「前の店の時は終電なくなれば店に泊まるか、誰か適当に見繕って朝帰りしてた。最近は逆に始発までバイトしてる。なあ、今日だけだよ。次からは終電に間に合うように帰るから。アリスさんともそういう話になってる。」
始発までって、それじゃいつ寝てるんだよ。そんなことも気になりつつも涼矢が断り文句を考えあぐねていたその時、ふっと哲の気配が近くなった。哲は後ろの席から身を乗り出し、涼矢の耳元近くにまで顔を寄せていたのだった。
「泊めてくれたら、お礼になんでもするからさ。気持ちいいこと。」耳に哲の唇が触れた気がして、涼矢は反射的に手が出た。その手の甲が哲の頬に当たり、哲が小さく呻いた。
「今すぐ降りろ。」
「冗談だよ、冗談。」哲は元の席にドサッと座り直す。「つうか、どっちでもいい。したきゃやるし、したくないならしない。もちろん何やろうが、誰にも言わない。バレないようにする。」
「降りろ。バイトもなかったことにする。」涼矢は怒気をはらんだ声で言った。
「……分かったよ。何もしないよ。ごめんて。」
「警告したんじゃない。降りろって言ったんだ。」
「いきなり最終通告かよ。なあ、悪かったって。もう、こういうことしないから。」
涼矢はそれまでミラー越しにしゃべっていたが、体をよじって哲を直接見て、言った。「おまえ、もうしないもうしないって、何回嘘ついてると思ってんだよ。」
「だから、ごめんってば。俺、分かんねんだよ。セックスなんてそんな大したことじゃないと思ってるし、俺がおまえにお礼したいと思ったら、そんなことぐらいしかできないから。それしか思いつかないんだよ。」
「セックスでしか感謝が伝えられないって、どういう育ち方を……。」と言ったところで、その続きが言えなくなった。育ち方って。幼い時に親が離婚して、母親に新しい恋人ができて、その人に恋をして、その人が父親になって、弟妹が生まれて、家の中に自分の居場所がなくなった。そういう育ち方だ。
「そんな憐れんだ顔すんな。俺様に失礼だぞ。」哲はそう言って笑った。「お察しの通り、良い育ちはしてないよ。母子家庭で貧乏だったし、再婚したって金持ちになったわけじゃない。貧乏な上にホモで学校じゃいじめられたし、実際どんな汚いおっさんとだって金もらえりゃ寝たし。でも、そうやって塾の先生と寝たから塾に通えた。勉強できた。私立の学校にも入れた。大学まで進学できた。立派だろ? 俺は別に恥じてなんかない。親の金でこんな車乗ってるおまえには、分かんないだろうけどな。」哲はもう笑っていなかった。
恥じていないのは本当かもしれないけれど、平気だったわけでもないんだろう。あの傷だらけの腕を見れば分かる。親の金で、のくだりには腹立ちを覚えるが、反論はできなかった。
「……シートベルト。」涼矢はそう呟くと、正面を向いて、ハンドルを握った。車を少しだけ走らせると、Uターンした。涼矢の家の方向へ。
ミラー越しの哲の落ち着きがない。服の上からだが、しきりに左腕を掻き毟るような仕草をする。傷痕が疼くのか。痛みはないが、たまに痒いと言っていた。本当に痒いのか、精神的なストレスでそんなことをしているのかは分からない。涼矢の家に着くまで、2人は無言だった。
玄関の靴を見ると、佐江子はもう帰宅しているようだった。リビングをのぞいたら、そこに佐江子はいた。辛うじて他人に見られても大丈夫な程度のスウェット上下を着ているのを確認して、涼矢は哲を連れてきたことと、泊めることを告げた。
「あっ、そう。」と佐江子は大して驚きもせずに言った。和樹を泊めた時を除いて、ここ数年はめっきりそんなこともなくなっていたが、以前は友人や従兄弟が遊びに来て、泊まっていくことは時々あった。
「遅くにいきなり来てすみません。それから、有栖川さんのお店、紹介していただいて、ありがとうございます。」哲はさっきとは全然違う、あどけない少年のような表情で佐江子に挨拶をした。外面の良い奴め、と涼矢は思う。和樹の裏表のない社交性とは違う。
「アリスからも連絡もらったわ。いきなりのヘルプだったって? 災難だったわね。ま、頑張ってね。」
「はい。」
涼矢はリビングを横切り、和室のほうへと向かった。和樹は未踏の仏間だ。
「あ、ごめん、今、和室、使えないわ。資料広げてる。」と佐江子が言った。
涼矢はふすまを半分だけ開けて、部屋の中を見た。佐江子の言った通りの有様だった。書斎のジオラマをどかしてスペースを作ることも考えたが、どかしたジオラマの置き場所もなく、現実的ではない。つまり、哲を泊められるのは涼矢の部屋しかない。
絶望的な気分になってため息をつくと、涼矢は2階に向かった。ついてこいとも言われていないが、哲もその後に続いた。
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