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第281話 non-alcoholic(7)

 涼矢は箱ごとティッシュを渡す。哲はそれを抱え込み、涙と洟を拭うために次々とティッシュを使う。部屋にはその音だけが響き、誰も何も語らない。そんな長い沈黙の末にようやく哲は泣きやんで、ポツリと呟いた。「だって。他に何も返せない。」 「何を返すんだよ。貸し借りじゃないって言っただろ。」涼矢はゴミ箱を持ってきて、哲に使用済みの大量のティッシュを捨てさせた。佐江子が見たら勘違いしそうだ。和樹が見たら尚更だ。そんなどうでもいいことを考えていると、哲が言った。 「……死にたくなる。」 「え?」涼矢は再びベッドに乗り、哲に向きあうように、あぐらをかいて座った。 「何かしてないと死にたくなる。くたくたにならないと眠れない。無理やり寝ると、悪夢を見る。寝るのが怖くなって寝ないでいると、昼でも変なものが見えるようになって、頭がおかしくなる。生きてるのか死んでるのか分かんなくなって、血が流れてやっと生きてるって分かって、落ち着く。気が付くとこんななってる。」哲は左腕をさすった。 「……でもそれ、最近の傷じゃないだろう?」  哲はうなずいた。「中……高1ぐらいまでかな。セックスで紛らわせるようになってから、死なずに済んでる。だから、しないと死んじゃう。」 「そこまでしんどいなら、病院とか、カウンセリングとかに頼ったほうが。」 「前は行ってた、けど、薬出されるだけで、その薬飲むと落ち着くけど、ぼんやりして、いろんなことが考えられなくなる。だからやめた。」 「そういうのって勝手にやめちゃだめなんじゃないの。」 「だめかもしんないけど、嫌だったんだ。それに、その頃はもう、リスカとかしなくなってたし……。」哲はそこで言葉を止めた。  涼矢は辛抱強く哲の言葉を待つ。なんとなく、次に言おうとしていることが察せられた。  高1の頃にやめられた自傷と、それと引き換えのセックス依存。 「……ヨウちゃんと会ったから。」  やっぱりな、と涼矢は思う。確かその頃に出会ったと言っていた。 「ひどいセックスさせられたり、暴力振るわれたり。それでも、眠れないより、悪夢を見るより、マシだった。金ももらえたし。でも、時々すげえ気持ち悪くなって、腕切るとスッとした。けど、ヨウちゃんと出会ってからは、そういう時は、ヨウちゃんとこに行けば、いつでも優しくしてくれて、でも俺、優しくされるのって慣れてないし、すぐに物足りなくなって、よその男のとこ行ったりして、また変なことばっかされて。その繰り返しで。でも、ずっと、どんな嫌なことされても、ヨウちゃんがいるから大丈夫だって、そう思えば、なんとかなって。」 「おまえの言ってる優しくって、なんなの? 殴らなければ優しい?」  哲は首を横に振った。「ヨウちゃんとはエッチしない時もあった。ただ朝までずーっとハグだけとか。そんな風にしてくれるの、ヨウちゃんだけだった。」 「倉田さんと別れて……その後、また、前みたいなこと、してたのか? バイトばっかりやってるんだと思ってたけど。」  哲はまた首を横に振る。「バイトしてたよ。バイトと学校にしか行ってない。朝までバイトしてればくたくたになれるし。でも、バイトがない日とか早番の日だと、また眠れなかったり、嫌な夢を見たりするようになってて。……でも、もう、ヨウちゃん、いないから。」哲は涼矢をすがるような目で見た。「だから言ってるんだよ。助けてよ。抱いてよ。そしたら、眠れると思う。」 「じゃあおまえ、話が違うな?」  涼矢がそう言うと、哲が訝しげに眉根を寄せた。「話が違うって?」 「俺に借りを返すためとか、そんなんじゃないってことだ。おまえは自分が安眠したいために、俺にセックスを迫ってた。そういうことだな?」  哲は一瞬言葉に詰まる。「だ、だったら何だって言うんだよ。俺もおまえも気持ちよくなれるんだから、理由なんか何だっていいじゃないかよ。」 「まだそんなこと言うわけ?」涼矢はそう言うなり、手を伸ばして、哲の後頭部に手を沿わせた。そして、それを引き寄せるようにして、哲ごと横になり、戸惑う哲の肩に両手を回した。「ハグぐらいならしてやる。ただし今日だけだ。余計なことをしたらその場で終了で、すぐに外に叩き出す。いいな?」 「……なんだ、よ、急に。」涼矢の腕の中で哲が言った。 「俺のせいだから。」 「何が。」 「倉田さんを……おまえから引き離した。」 「別におまえのせいじゃないだろ。」 「俺が倉田さんに言った。あんたなんかじゃだめだって。」 「そのぐらいのこと人に言われて別れるなら、そのうち別れただろ。」 「言わなければ別れないで済んだかもしれない。」 「けど。」 「いいから寝ろ。朝までハグしてやれば、眠れるんだろ? さっさと寝ないと、俺の気が変わるぞ。」  哲が慌ててぎゅっと目をつぶったのが見えた。  哲の動悸が速い。自分もだ。だが、やがて落ち着いていく。哲は指示通りに何もせず、おとなしく腕の中にいた。  なんでこんなことになっているのか。  やはりバイトなんか紹介するんじゃなかった。車で送るなどと言わなければよかった。断固として宿泊は拒否すべきだった。せめて俺の部屋は避けるべきだった。  「涼矢は強く迫られると抵抗しない」。和樹にそんな意味のことを言われたことがあった。エミリとのキスを引き合いに出されて。和樹とだって、最初はそうだった。そう言われて否定したけれど、結局このザマだ。抵抗しないどころか自分から抱き寄せてしまった。  なんでこんなことをしているのか。  哲に同情しているのか。していると言えばしているんだろう。かわいそうだと思った。あの傷を。結ばれない恋を。それと、俺には共感のしようのない貧しさというものに。見返りを伴わない優しさに慣れていないことに。

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