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第282話 non-alcoholic(8)
――あの人はただ、哲と一緒にいてやろうとしてるだけだと思う。
――哲が嫌な目に遭ったら、嫌だったねって。楽しいことがあれば、楽しいねって。そうやって寄り添ってあげたいだけなんだと思う。
和樹が以前、倉田さんのことをそう言っていた。衝撃だった。そんな、傷を舐め合うような愛し方があるなんて思いもよらなかったから。まして、それを和樹に指摘されたことがショックだった。心のどこかで、自分のほうが和樹よりいろんな経験をしていて、物事を深く考えている気になっていたし、哲や倉田さんのことをよく理解できていると思っていたから。「健全に」育ってきた和樹「なんかには」分からないと高を括っていた。でも、違った。世間知らずのお坊ちゃんで、表面的にしか見ていなかったのは俺のほうだった。
哲に本当に必要なもの。彼がずっと必死に追い求めてきたもの。
そして、倉田さんが哲に与えようとしていたもの。
それはきっと同じものだった。それなのに、彼らは離れてしまった。
俺が、引き離した。
哲にはもっと上を目指せと強いた。不安定な足場の上で、恐怖と不安に押しつぶされそうなのを知っていたのに、もっと上を行かなきゃおまえに価値はないと言い放った。
倉田さんにもだ。彼の負い目を利用して責めたてた。おまえなんかに何ができると追い詰めた。倉田さんは和樹と同じように、目の前で血を流した人がいたら、それが誰であれ問答無用に助けようとするのだろう。自分にもできることがないかと必死に探すのだろう。だから哲を放っておけなかった。なのに俺が、傷が同情で治せるものか、医者でもないくせに何ができる、一生の保障もできないなら半端に手を貸すなと畳みかけて、哲に差し延べていた手を離させた。
俺が。
俺のせいだ。
腕の中の哲が寝息を立てていた。
こんな風に誰かを抱きしめたのは、記憶にある限りでは、和樹しかいない。和樹の筋肉質な身体とは全然違う。和樹は当然こんな風に腕の中にすっぽりはまるようなことはない。自分の服を貸したから、哲にはぶかぶかで、丸首の襟元からは鎖骨からその先の薄い胸板まで見える。単なるLサイズとМサイズの差分とは思えない。哲は思いのほか痩せていた。前からそんなだったか、分からない。いつも長袖だったから。今日初めてまじまじと腕を見た。傷に気を取られてその細さは意識していなかったが、今思い出すと随分と細かったようにも思う。
倉田さんは哲より更に背は低かったけれど、この薄い体なら、充分に抱きしめてやれただろう。あの人はそうして、何度も何度も傷ついては戻ってくる、この「小さく貧しい、かわいそうなこども」を優しく抱いてやったのだろう。
あの人にこの子を返すのは、もう、手遅れなんだろうか。
そんなことを考えながら、いつの間にか、涼矢も寝てしまっていた。
アラームが鳴り、軽い腕の痺れと共に、涼矢は目覚めた。哲は昨日とまったく同じ姿勢で腕の中にいた。アラームが鳴っても、まだ熟睡している。哲が自分で言っていた通り、ほとんど眠れていない日々が続いていたのだろう。涼矢は哲の頭の下からそっと腕を引き抜き、ベッドから降りた。
涼矢が自分の身支度も朝食の準備も済ませた頃に、佐江子が起きてきた。
「あら、今日は和食。珍しい。」
「昨日夜遅くに食ったからね。胃に優しい感じで。」
「ああ、なるほど。このおにぎりは?」テーブルの片隅にホイルで包まれたおにぎりがあった。
「哲の昼飯。」
「私のはないの?」
「持って行くなら作るけど。」
「えーと……ああ、今日は外行くんだったわ。やっぱり要らない。」
「だろ? 弁当が欲しい時は前日までに言ってください。」
「はーい。……あなた、自分の分は?」
「俺は学食で食う。一食ぐらいは他の人が作ったものが食べたい。」
「あら、そう。で、彼は?」
「起こしてくる。味噌汁、よそっておいて。」
「うん。」
涼矢が自室に行くと、哲はまだ寝ていた。
「おい。起きろ。」まずは声だけかけてみる。どうせ起きないだろうと思ったが、案の定起きない。その後、肩を揺さぶり、鼻をつまんだが、それでも起きなかった。
涼矢は耳元で囁いた。「今すぐ起きたらキスしてやる。」
その時、パチッと哲の目が開いた。
「やっぱり、起きてたか。いつからだ?」
「キスは?」
「何の話?」
「言っただろ、今。」
「起きろって言っただけだよ。夢でも見たか?」
「嘘つき。」
「おまえに言われたくねえよ。朝飯できてるから。」
「この格好のままでいい?」
「別にいいけど? 俺もいつもは食ってから着替える派。汚すの嫌だから。」今日はいつ起きるかもしれない哲の前で着替えるのが嫌で、わざわざバスルームの脱衣所まで着替えを持って行って着替えた。
「いや、そうじゃなくて、田崎の服をなるべく長く着ていたい。」
「やっぱり先に着替えろ。」
「冗談だよ。」哲はベッドから降りて、大きく伸びをした。「ああ、よく寝た。すげえ久しぶり。」
「そりゃ良かったな。」
「是非また、と言いたいところだけど。」涼矢が睨む。「そんなことは言わないよ。これは絶対。今後こそ本当。」哲はホールドアップの姿勢をした。倉田さんもいつだったか似たような仕草をしていた気がする。
結局哲も昨日着ていた自分の服に着替えて、2人で階下に降り、食卓についた。
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