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第283話 non-alcoholic(9)

「麻生くんはどうして弁護士を目指してるの?」納豆をかきまぜながら佐江子が言った。涼矢は哲の名字が麻生であることをぼんやりと思い出した。  哲は納豆は苦手だと言って断り、味噌汁を口にする。「えっとですね、貧困層の助けになりたいと思っているからです。……具体的には、と聞かれたらその先も答えられますけど、まあ、これは嘘なので。本当のことを言えば、高校の時の先生に勧められたからです。食いっぱぐれないし、収入がいいぞ、と。」  佐江子は哲のそんな回答に不快そうな顔もしなければ、おかしそうに笑いもせず、言った。「それを言うなら医師でも良かったんじゃない?」 「医学部に入る金がなかったんで。」 「ああ、なるほどね。」 「検事は?」 「検事でもいいです。なんでもいいんです、要は。」 「まあ、そうね。高収入で、貧困層の助けになる仕事という意味では、なんだってそうね。政治家だって、シェフだって、宮大工だって、歌手だってそうだわ。有能ならね。で、あなたは有能そう。」 「ありがとうございます。」哲はにっこりと微笑んだ。「でも、歌手は無理かな。音痴なんで。」 「あらそう。じゃ今度私とカラオケで音痴対決しましょう。」 「彼も一緒に?」涼矢をチラリと見る。 「この子ね、こんな顔して意外と上手いのよ。ピアノやってたしね。音楽系は割となんでも率なくこなすの。ただ、すっごくつまんなそうに歌うから、カラオケは一緒に行きたくない。白けちゃう。」  哲は笑った。これは愛想笑いではなく、本心から笑っているようだ。 「都倉くんは上手いの?」佐江子が平然と言い出して、涼矢は狼狽えた。「え、だって麻生くんも彼の友達なんでしょ?」  昨夜、シャワーをしている間に、2人はどんな会話をしていたと言うのか、涼矢に一抹の不安がよぎった。  そこへ哲が追い打ちをかけた。「俺も都倉くんとはカラオケ一緒にしたことないんですよね。どうなの?」 「……下手じゃない、と思う。特別上手くもないけど。」高校の頃、部活のメンバーでカラオケに行ったことは何回かあった。涼矢は隅の方でじっと座っていただけだったが、部活仲間は涼矢がそんな態度を取ることには慣れていたので、歌を強要するでもなく良い具合に放置してくれていた。涼矢がそれでもその場にいたのは、和樹の姿が近くで見られる貴重な場だったからだ。そんな時の会話で、和樹の好きな曲や興味のあるバンドを知ることが、ささやかな楽しみだった。時には話を合わせて、CDを借りる約束を取り付けたりできた。実のことを言えば和樹の好みの音楽と自分の好みのそれはあまり重ならなかったのだけれど、バスケ漫画と同様、重要なのは和樹と同じ共通の話題を持つことであって、自分の好みなどどうでも良かったのだ。  自分の好み。「そう言えば、デスメタルは結構上手に歌いこなしてたな……。」 「デスメタル!」哲はさっきより更に派手に笑った。「カラオケでデスメタル歌うの? 彼。意外だな。」 「カラオケじゃなくて……俺が聴いてたのを、真似して……それだけ。」 「おまえ、デスメタルなんて聴くんだ?」 「クラシックもジャズもハードロックも、いろいろ聴く。ヒップホップとか日本のポップスはあんまり聴かないけど。」 「へえ。」 「まあ、どうでもいいだろ、そんなの。それ食ったら、大学(ガッコ)行くぞ。一限、一緒だろ。」  佐江子を送り出してから、2人でバスで駅まで出て、電車に乗った。 「車通学しないの?」 「まだ登録してないし……でも、たぶん、しないな。」自動車通学には大学に申請して許可をもらわないといけない。 「なんで。」 「おまえが乗せろって言ってくるから。」 「バレたか。」 「それどころか、チャリ通にしようかと思ってるぐらい。」 「遠くない?」 「3、40分じゃないかな。バスと電車乗り継ぐのとあまり変わらない。」 「なんでまた。」 「健康維持。」 「おっさんくせ。」 「スポーツやってた奴ほど、筋肉落ちるとみっともないからな。」 「なんかやってたんだっけ、部活。」 「水泳。」 「ああ、そか。彼氏と一緒の。」 「そう。」 「……昨日のこと、話す?」 「和樹に?」 「うん。」 「秘密にするつもりだったけど、話すと思う。」 「言わない方がいいよ。都倉くん、傷つくよ。」 「おまえが言うな。」 「うん。だからさ、反省してるよ。」 「……ああなるのか、時々?」 「うん。」 「今は元気そう、ていうか、いつも通りに見える。」 「明るいうちとか、誰かがいる時は割と大丈夫。それに、昨日はおかげさまでよく眠れたから。夜、1人で、暗いとこにいると、だめ。1人の時は煌々と電気つけて寝てるよ。……それでも、あんまり眠れないけどさ。」 「それって、誰かといる時は大丈夫なんじゃなくて、誰かといる時はそれだけ気を張って、無理してるってことなんじゃないの? 眠れないのが続くようなら、やっぱり病院レベルだと思うぞ。」 「分かってるよ。」 「ちゃんと行けよ。大学にも相談室とかあるだろ。……あと、倉田さんと、もう1度話したほうがいい。」 「え?」 「それこそ俺が言うなって話だけど……。俺、知らなかったから……その、倉田さんと、おまえのこと。あそこまで、深く入り込んでるって、思わなかったから。」 「俺とヨウちゃんはさ、共依存ってやつじゃないのかな。続けてもあんまり良いことないよ。分かってたんだ、自分でも。」 「分かってた……?」 「だから、止めてもらえて、良かったんだ。田崎は昨日、自分のせいとかなんとか言ってたけど、おまえのせいで別れたんじゃないよ。俺もヨウちゃんも、おまえに助けられたんだ。……ってね、理屈では分かってる。今の状態がいいわけじゃないのも、分かってる。でも、うまく行かない時もあるんだよ。おまえだってあるだろ? 頭と心と体が、全部バラバラみたいな感じ。」  ある。俺にもある。でも、それは以前の……ゲイを自覚して、でも自分がそれを受け容れられなかった頃の、一番辛かった時のことだ。今になってしまえば「一時期」と言える期間だけのことだ。あの状態が、哲はずっと続いているのだろうか。いや、きっと哲はあの頃の俺より、もっと辛い。それを想像すると、こっちまで吐きそうだ。

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