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第284話 non-alcoholic(10)
「でも、そうだな。」哲はうつむいて、何やら考え込んだ。今、哲の脳はコンピューターのように目まぐるしく何かを処理しているのだろうと涼矢は思う。「ヨウちゃんともう1回話すというのは、悪くない考えだ。」
涼矢は隣に座る哲の横顔を見た。「よりを戻す?」
「さあ、そこまでは。それに、今すぐは無理。ヨウちゃんだって、今はどうせぐしゃぐしゃだ。だから、もっと先。俺が叔父さんの世話にならなくても食っていけるようになるとか、司法試験通るとか、なんかおっきいことを乗り越えられたら、もう一度、ヨウちゃんに会いたい。」
「おまえはそれで大丈夫なのか? 乗り越えたらって、乗り越えるためにあの人が必要なんじゃないの?」
「今は会えない。今会ったら、また同じことの繰り返しだ。……ヨウちゃんは俺をかわいそうがってるんだ。だから俺と別れる時も、俺よりキツそうな顔しちゃってさ。もう、あんな顔させたくない。ヨウちゃんにかわいそうがられないような……そういう風になれたら……その時に、会いに行きたい。かわいそうじゃなくなった俺を受け容れてくれるかどうかは知らないけど。その頃には、案外こどもと奥さんとうまく行っちゃって、普通の家庭になっていたりして。」
「その可能性だって、ゼロではないだろ? それでもいいのか?」
「いいよ。」哲は微笑んだ。「ヨウちゃんからはもらいっぱなしで、俺からあげられたものなんか何もない。だから、もしそうなっても、いいんだ。ヨウちゃんが幸せになるんだったら、それでいい。」それから涼矢を見た。「おまえからも、もらいっぱなしだけど。」
「だから、それは。」
「貸し借りじゃないんだよな?」
「そう。」
「だから、返さないよ。返さないで、大事に持っておく。ヨウちゃんからもらったもんと、おまえからもらったもんと。それがあれば、たぶん、大丈夫だ。」
「腕切ったり、しない?」
「しない。」
「適当なセックスとか、しない?」
「しない。」そう言った矢先に、また哲は考え込む。「いや、それはちょっと自信ないな。」
「おい。」
「したくなったら、おまえんちに行くわ。相手してくれよ。」
「嫌だよ。」
「違うよ、判例についての議論の相手。お母さん交えてもいいな。そしたら、萎えるだろ。」
「おまえ昨夜、おふくろと議論したんだろ? でも萎えなかったじゃないか。それどころか襲いやがって。」
「あんなチャンスの時に議論なんかするかよ。お母さんからおまえと都倉くんの話を聞きだしてたんだよ。萎えるわけないだろ。」
「くそっ。」
哲は笑って立ち上がる。「ほら、何やってんだよ、降りるぞ?」いつの間にか大学の駅に着いていた。
「えっ。」涼矢は慌てて立ち上がる。弾みでバッグからテキストがなだれ落ちた。「やべ。」
「何やってんの、もう。」哲が素早く拾い上げて、涼矢に押し付けた。涼矢はとりあえずそれを抱えて、ドアが閉まる寸前になんとか電車を降りた。ホームでバッグにしまう。
「サンキュ。」
「ボーッとして。おまえらしくもない。」哲はもうひとつケースを涼矢に差し出した。「あと、これ。おまえ、メガネなんかかけてたっけ?」
涼矢はメガネケースを開いて、中身が無事であることを確認してから、それもしまった。「うん、たまに。運転する時ぐらいだけど。」涼矢は歩き出した。
哲も並んで歩く。「昨日運転してた時はしてなかったじゃん。」
「したりしなかったり。」
「ちょっとかけてみてよ。」
「嫌だね。」
「なんで。いいじゃん、それぐらい。」
涼矢は哲を横目で見る。「和樹に怒られるからだめ。」
「は? なんで都倉くん?」
「あいつ、俺のメガネ姿に惚れてるから。特別なの。」
「はあ? なんだよ、それ。そんなくだらないノロケ聞かせるなら、俺、バラしちゃうよ、都倉くんに。昨日のこと。おまえが超優しく一晩中ハグしてくれたって。」
「別にいいよ。」
「それでヤキモチも焼かれないんじゃ、随分冷え切ってるんじゃないの。」
「ヤキモチは焼かれると思うよ。無茶苦茶怒られると思う。おまえを車で送るって言っただけでも相当怒ってたし。」
「そんなら、黙ってるほうがいいだろ。」
「怒るけど、許してくれる。」
「考えが甘いなあ。」
「甘いよ。でも、あいつはもっと甘い。俺に対して。だから、最後には許してくれる。」哲が涼矢の背中を思い切り叩いた。「いってえ!!」
「ムカつく、人が失恋して、不眠に苦しんでるっつうのに。」
「あいつはおまえにも甘い。倉田さんにも甘い。おまえらが幸せになればいいって言ってた。」
「え?」哲は目を丸くして涼矢を見つめた。
「和樹だって、おまえらにはいろいろ腹を立ててたよ。でも、最後にはそう言ってた。おまえらのために何かできないかって、考えてた。別れ話聞かされた後だって、おまえのこと心配して。」
「……すげえな、あいつ。」
「すげえだろ?」涼矢は哲に笑いかけた。
「幸せなんだな、彼は。」
「彼って、和樹?」
「ああ。他人に優しく、甘くできるのはさ、自分が幸せだからだよ。余裕があるんだ。おまえもだけどね。」
「哲には、俺らが能天気なバカップルに見えるか?」
「悪い、皮肉を言ったつもりはないんだ。幸せなバカップルだとは思ってるけど、脳天気とまでは思ってない。」
「おまえから見りゃ、俺もあいつも馬鹿だろうよ。」
「そんなこと思ってないよ。一番馬鹿馬鹿しいことやってんの、俺じゃん。そんで、みんなのこと、振り回して。心配させて。最悪な野郎だよね。」
「よくお分かりで。」涼矢は哲を見た。「もう、やめろよ。自分のこと、傷つけるの。議論の相手ならいつでもしてやるから。」
「おまえなんかすぐ論破してやるね。あ、そうだ、俺が論破するごとに一発やらせてよ。」
涼矢が哲の背中を叩いた。「セクハラで訴えるからな。」
そうこう言ううちに、キャンパスに到着する。2人で、講義のある教室に向かった。
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