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第285話 ながめせしまに(1)

 同じ日の夕方。和樹は塾にいた。受け持つ授業はない日だったが、翌日に控えている模試と、同時間帯に保護者向けに行われる進学説明会の準備という名目で呼び出された。その説明会にも駆り出される予定だ。涼矢が来る日も近いし、臨時収入はありがたいと引き受けたものの、実際に塾に着いて真っ先に頼まれたことと言えば。 「ハロウィンなので、これを。」菊池がハロウィン仕様のガーランドやモビール、それから窓ガラスに貼るジェルシールといったものを見せた。「都倉先生、背が高くていらっしゃるから、お願いしたくて。ごめんなさいねえ、こんなこと頼んで。」 「それぐらい、いいですけど。」 「ついでに。」早坂がぬっと現れた。「いや、ついでは飾り付けのほうで、こちらがメインなのですがね。配布資料の原稿です。」早坂がUSBメモリを和樹のデスクに置いた。「校正してから、印刷して、ホチキス止めしたものを50部準備してください。」 「はい。」 「あと司会進行役もお願いします。出席予定の保護者は30人程度で、そんなに大がかりなものではありませんし、基本的には配布資料に沿って、そのまま話すだけです。質疑応答の時間も設けますが、不明な点は私がフォローします。」 「教室長も同席していただけるんですね。」和樹は念を押した。いきなり1人で保護者相手に進学の説明などできる自信がなかった。 「はい。」早坂は素っ気なくそう答える。「スーツはお持ちですか?」 「すいません、持ってません。チノパンとジャケットなら。あの、面接の時みたいな。」 「まあ、いいでしょう。相手が保護者なのでカジュアル過ぎないようにお願いします。」 「はい。……スーツ、持ってた方がいいですかね?」 「それはなんとも申し上げられませんが、一着ぐらい持っていても無駄にはならないと思います。成人式などでも着るのではないですか。」 「教室長はいつもスーツですね。」 「スーツの他にはジャージと寝巻しか持っていません。」早坂は真顔で言うので、冗談かどうか、判断しづらい。「ああ、そうだ。」早坂は急にその場を離れて、ロッカーへと向かった。和樹や非常勤講師が共同で使っているロッカーではなく、更に奥にある、役員用のロッカーだ。こちらはネームプレートがついていて、個人専用になっている。早坂は自分のではなく、小嶋のロッカーを開けた。「都倉先生、ちょっとこちらへ来ていただけますか。」  和樹が赴くと、早坂はロッカーからスーツを出した。クリーニング店から戻ってきたままのビニールのカバーをめくり、ハンガーからジャケットを外した。「これ、着られますかね?」  小嶋のロッカーから出てきたのだから、小嶋の物だろうに、早坂は自分の物であるかのように、そんなことを言う。だが、和樹は取り立てて何も言わず、着ていた自分のジャケットを脱いで、代わりにそれに袖を通した。ボタンを留めると若干胸のところがきついが、着られなくはない。 「ズボンはどうでしょう。少し短いかな。」早坂は和樹の腰にズボンのウエストを合わせて、様子を見る。「やっぱり着てみないとだめですね。トイレか、あちらの空き教室を使ってもいいので、着替えていただけませんか。」  言われるがままに、和樹はトイレでズボンを穿き替えて、戻ってきた。ズボンは太もも周りが若干キツい。それに、少し丈が短いようだ。だが、滑稽というほどでもない。シルエットにうるさい母親の恵なら没にするかもしれないが、この程度ならお直しなどせずとも許容範囲と言えそうだ。 「よろしかったら、差し上げます。」 「え。小嶋先生のですよね?」 「はい。」 「いいんですか、勝手に。」 「彼、去年、いや、もう一昨年になるのかな、大病して、そこに来て介護もやることになって、激痩せしたんですよ。それまではトライアスロンが趣味のスポーツマンで、都倉先生と似たような体格でした。背丈もそれほど変わらないと思いますよ。すごく痩せた上に、すっかり猫背になって、小さく見えてしまうけれど。」 「それまでは、こういった飾りつけも小嶋先生にお願いしてましたものね。」と受付の菊池のほうから声が飛んできた。 「だったらまた、着ることもあるんじゃないですか。体型が戻ったら。」 「胃をほとんど切除してしまいましたからねえ。おそらく元の体型には戻りません。そういう事情なので、もう着ないですよ。」 「小嶋先生に聞かないでいいんでしょうか。」 「いいですよ。私が彼に買ってあげたものですし。」 「え?」 「誤解しないでください。私には妻も子もいます。」早坂は勘がいいのか、二歩三歩先のことを言うことがあるが、このセリフと早坂が小嶋にスーツを買ってやる理由との間を埋める理屈は、和樹にはピンと来ない。 「ボーナスが現物支給だったとか……。」  早坂は少しだけ口の端を緩めた。彼にとっての笑顔らしい。「彼の結婚祝いです。」 「小嶋先生、独身って聞きましたけど?」 「戸籍上はそうです。……まあ、隠しておいても仕方のないことですし、都倉先生はこれを聞いて業務に影響が出る方ではなさそうなので申し上げますと、小嶋は久家と養子縁組しています。一昨年、彼にガンが見つかって、手術やら入院やらという話になった時、彼らはもう20年以上も一緒に暮らしていたのですが、それでも同居人の立場では身内扱いしてもらえず、いろいろと不都合なことがあったようです。それで養子縁組しました。そういう事情ですから特にお披露目もしませんで、せめてもの記念にと、私がそれぞれにスーツを仕立ててやり、写真を撮りました。私が言うのも何ですが、このスーツ、そこそこ値段も張りましたし、結構いいものですよ。それなのに結局その1度しか袖も通していないうちに体型が変わってしまいましてね、もったいないから着る人がいれば譲ろうとここに置いてあったのですが、なかなかこれだけ体格のいい人がいなくて残念だと小嶋も言っていました。ですから、どうぞ気になさらずに。」  和樹は淀みなく話す早坂の口元をただ茫然と見ていた。最後まで聞いて、内容が脳まで伝達されるまでには、しばしの間があった。 「えっ。……ええっ?」  猫背でひょろりとしている小嶋。  小太りで頭髪の淋しい久家。  対照的な外見の2人の姿を思い浮かべた。2人が夫婦同然の関係ということが、和樹には到底信じられなかった。塾の中で2人が会話しているところも何度も見たが、単なる同僚にしか見えなかったし、特段の異和感もなかった。

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