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第290話 VOICE(3)

 涼矢は膝を抱えて、膝頭の間に自分の顔を伏せるようにした。期待していたのは和樹からの罵倒だ。ふざけるな、と怒られると思っていた。そうやってこっぴどく怒られて、そしたら自分は何度も謝罪して、爆発し尽くした和樹が、最後には「やってしまったものは仕方ない」と言って決着を見る。そんな風に収まっていくことを願っていた。  だが、違っていた。多少の罵倒はしてきたけれど、それよりも和樹は戸惑っているようだった。そして混乱のままに電話を切られた。怒っていると言うなら、「バーカ」と言うなり電話を切った昨日のほうがよほど怒っていたように思う。そして、それについて『掛け直せよ、ああいう時は。』と和樹は言っていた。  今も、掛け直すのが正解なんだろうか?  涼矢は迷った。掛け直して、それで? 自分は何をすればいい? 今と同じじゃだめなことは分かるが、今と同じことしかできない。  それから、バーカと分かりやすく怒っていた昨日と違い、今の和樹は「時間をくれ」と言っていた。  時間を得て、それで、和樹はどうしようとしている? 何か考えたい? 何を考える?  何を?  ……何を?  涼矢は、和樹にどれだけ怒られようと当然だという覚悟をしていたのに、それだけ怒らせた相手が「それ」を言い出す想像はしていなかった自分に気付いて愕然とした。  もう和樹は、俺のことを信用できない?  けど、信用できない相手と遠距離恋愛なんて、無理だろ。  考えるって……そういうことを?  『嫌なのは嫌だけど、でも、たかがハグ。そこまで深刻に考えることじゃないさ。二度としないんだったら、もういいよ』。和樹がひとしきり怒って、俺が謝り倒して、そうしたらいつかはそんな風に言ってくれるんじゃないかと、期待していた。  でも、同時に、和樹にしたって軽々しくハグなんかしないとも思う。和樹がもし俺以外の奴を、昨日の俺みたいにハグするとしたら、それはもう、その相手を本気で好きになっている時だと思う。俺よりも、そいつを。俺とつきあいつつ、そんな風に俺を裏切る奴じゃないのは、俺が誰より知っている。それなのに、俺のするハグは笑い飛ばしてくれるんじゃないかって……何故そんな風に思ってしまったのか。 ――分からなかったんだ。  昨日の哲にどう優しくすればよかったのか。優しくしないほうが良かったのか。  でも、あんな哲を見捨てたら、和樹に軽蔑されると思ってしまった。  哲に優しくして和樹を怒らせるか、哲を見捨てて、和樹に軽蔑されるか。  俺にはそのどちらかの方法しか分からなかった。でも、どちらも間違ってるってことだけは分かってた。分かっていたけれど、前者を選んでしまった。軽蔑されるより、怒られるほうが、まだ取り返しのつくことのように思えたから。  だから、そうして……けれど、現実の和樹は、怒るより悲しそうだ。  想定外だった。怒るとばかり思っていて、和樹が傷つくとか、悲しむとか、そういう反応は考えていなかった。  こうして電話を切られて、ようやく気が付いた。  皮肉なことに、和樹が自分を愛してくれているという事実に、だ。  自分が和樹を好きなのと同じぐらい、自分を好きになってほしいのだと。何かあったら一緒に傷ついてほしいのだと、和樹に伝えたのに。そう言ったら、和樹はもうとっくに好きだし、傷つく覚悟もしていると言ってくれていたのに、まだ俺はどこかで愛情は自分からの一方通行の気がしていた。だから、今回の哲のことも、和樹は「飼い犬に手を噛まれた」という意味で、俺を「怒る」のだとばかり思っていた。俺が他の奴に優しくすることが、和樹を「悲しませる」行為だとは思わなかったんだ。  和樹を傷つけるなんて、思わなかったんだ。 「馬鹿みてぇ。」涼矢は呟いた。  考えるまでもなく当たり前のことだ。逆の立場なら、俺は和樹を怒らなかっただろう。怒りよりも、悲しみが大きくて、傷ついたことだろう。だったら和樹だってそう思う……とは、何故、思わなかった? ――そこまで愛されているって、知らなかった、から。  どうして俺は、こんな風に後悔ばかりするんだろう。当たり前のことに気が付かないんだろう。  涼矢はいつの間にか手から滑り落ちていたスマホを拾った。  『少し時間をくれ。』  和樹の願いのままに、少し時間を置くべきなのか。今すぐ電話して、洗いざらい今の気持ちをぶちまけて、ぶつかっていくべきなのか。涼矢は迷った。  いつもの自分なら、迷わない。待つ。待ってくれと言われたから、待つ。電話しても特別なことは何も言えないから、待つ。でもそれは結局逃げではなかったか?   涼矢は恐る恐るリダイヤルする。聞き慣れた着信音。しかし、それが途切れて聞こえてきたのは、留守電に切り替わるというメッセージだった。涼矢は通話を切った。それなら、とメッセージを入力しようとする。でも、それもやめた。何も言えないのだ。言うべき言葉などないのだ。声だったら、それでも感情だけは載せられるかもしれない。でも文字にして伝えられることはなかった。  何もできない。今、和樹の気持ちをつなぎとめる術が、自分にはひとつもない。  待つことしかできない。  辛い。けれど、すべて自分の蒔いた種だ。  好きだと言ってくれた和樹を信じることができなかった、俺の、せいだ。

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