291 / 1020

第291話 VOICE(4)

「はあ。」和樹は盛大にため息をついた。塾から帰ってきて、まだ着替えもしていない。もらったスーツは辛うじてハンガーに掛けたが、着ていた服はジャケットすら脱がずに、ベッドに大の字に寝転がった。反芻するのは、当然、涼矢に聞かされた内容だ。  何が起きたのか分からない。  涼矢が哲と一晩を過ごした。  と言っても、セックスまでしたわけではないらしい。キスすらもしていないのだろう。そう、ただ一晩抱きしめていただけ。涼矢の言葉を信じれば、それだけだ。  それだけのことだ。  なのに、胸が痛い。胃がむかむかする。泣きたくはない。じりじりと焦げ付くような感情。そう、嫉妬以外のなにものでもない。  哲に対して、嫉妬はずっとしていた。当たり前だ。あんな風に涼矢の懐に入っていった奴を、俺は他に知らない。もともと友達すら限られた涼矢だけど、それでも親しくしている友達はいた。たとえば柳瀬とかその弟とか。だが、彼らは幼稚園からの幼なじみなのだから当然だ。納得出来るし、何より、友情以上の気持ちがないのは見て取れる。津々井をはじめとした水泳部の仲間にしてもそうだ。でも、哲は違っていた。最初から涼矢を「性的対象」として見ていた。  今でこそ、俺は、涼矢に欲情する。だから、嫉妬もする。けれど、最初からじゃなかった。俺は津々井や柳瀬の側にいた。でも、哲は、はじめから「涼矢側」の人間だった。つまり、ゲイだった。  人を愛することに、男だとか女だとか、そんなものは関係ない。今ではそう思ってる。心から。でも、それは所詮後付の考えだ。哲や涼矢のように、最初から同性が恋愛対象だったわけじゃない。同性を好きになった、それを正当化するための「理屈」として、そんなことを言ってるだけかもしれない。  だって俺は、小嶋先生と久家先生のことを聞いた時、正直、少し、嫌悪を感じた――。あんな、「おじさん」同士が、愛し合っているという事実を、ほんの少しだけれど、気持ち悪いと、思ってしまった。  考えないようにしていた。それを認めてしまったら、涼矢との将来を否定する気がしたからだ。  小嶋先生たちだけじゃない。哲と倉田さんの時も、似たような感覚に陥った。あの2人のセックスを想像するのは、あまり楽しいものではなかった。変な話、かつての恋人の綾乃と、彼女の彼氏として自分の後釜にすわった柴とのセックスを想像するほうが、ずっと性的興奮を覚えた。  俺はゲイじゃない。俺には分からないけど、涼矢は何度もその「違い」に傷ついてきただろう。俺の知らないところで、俺が涼矢を傷つけることだってあっただろう。でも、そういう、俺には理解しようのない壁を、哲だったら、すんなりと乗り越えて行けるんじゃないだろうか。  もし、涼矢が、哲といるほうが居心地がいいと思ってしまうなら、それを責めることなんか、俺にはできない。  和樹は立ち上がり、涼矢からもらったイラストファイルを取り出した。ぱらぱらとめくり、あの、出会った最初に心惹かれた、ブルーの絵を見た。それから、その隣に新たに増えた、オレンジの絵を。  眺めていた絵が、ふいにぼやけたかと思うと、青の絵の上に1粒、2粒と水滴が落ちた。ビニールの上だから、絵そのものは濡れはしないが、和樹はそれを袖口で拭おうとして、まだジャケットを着たままだったことに気付いた。ジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けた。それからティッシュで改めて水滴を拭った。ファイルは閉じて、元の棚に戻した。  あいつには3年間も辛い思いをさせたかもしれない。  けど、俺だって、一生懸命愛したんだ。  それなのに今更、俺じゃだめだと突きつけられてしまうのか?  でも。  哲のほうが、あいつのことを理解できるかもしれない。  哲のほうが、あいつをもっと高みに連れて行ってやれるかもしれない。  和樹はシャワーを浴び、部屋着兼パジャマのスウェット上下に着替え、カップラーメンをすすり、ベッドに入った。その間もずっとそんなことをぐるぐると考えていた。  布団にもぐりこんで、目を閉じた。  こんな風にしても、眠れない日々が続いたのか、哲は。一過性の失恋のショックということではなく、中学の頃から、ずっと。そして自分を切りつけて、行きずりの男たちに身を投じて、生きてきたと言うのか。そんな話を聞かされて、平気でいられる涼矢じゃない。それに心を動かされた涼矢が悪いわけがない。ただ、あいつは――涼矢は、加減を知らないから。ハグしてくれれば眠れると言われたら、そうするほかなかったんだろう。  そうとは分かっているけれど。  和樹は枕を頭の下から外して、胸に抱いた。涼矢はこうして哲を抱いたか? 俺を抱く時みたいに? ――嫌だ。  唐突に、そんな感情が突き上げてきた。 ――嫌だ。  涼矢にこんな風に抱かれていいのは、俺だけだ。  細胞のひとつひとつまで愛しているって言ったのは、涼矢だ。  愛していると言った、あの唇に触れていいのは、俺だけだ。  そう言いながら俺を強く抱き寄せたのは、涼矢だ。  その涼矢の熱い体を抱き返していいのは、俺だけだ。  哲になんか、哲じゃなくても、他の誰にも、涼矢は渡さない。絶対に。  涼矢が哲に同情したとかしないとか、哲のほうが涼矢にふさわしいとか、そんなことどうだっていい。 ――嫌だ。 ――こんな風に終わらせてしまうのは、嫌だ。

ともだちにシェアしよう!