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第292話 VOICE(5)
哲を一晩中ハグした。不眠で辛そうにしている哲を見ていられなかったから。
涼矢の言葉は、それ以上でもそれ以下でもなくて、その通りの事実を言ったに過ぎない。
だったら俺も、それ以上でもそれ以下でもない言葉を返す。
――ただ、早く会いたい。
ハグした事実なんか、もうどうでもいい。
いや、どうでもよくはないけど。
――今はただ、早く会いたい。
会って、あいつをなじって、そして、俺がどんな想いをしたのかをあいつにぶつけてやりたい。
あいつがしたことの重さを、思い知らせてやりたい。
あいつをどんなに俺が愛しているか、刻みつけてやりたい。あいつの心にも、体にも。
気が付けば、カーテンも閉めずにいた窓の外は白んでいた。一睡もしないままに、朝を迎えていたのだった。
和樹はそれからほんの1時間ばかりだけ眠った。模試は実際の入試の時間に合わせた時間に始まるから、準備も含めてかなり早くから動かなければならず、それしか睡眠時間は取れなかった。前日もらったスーツに身を包み、父親のお下がりのネクタイを締めて、塾へと向かった。
電車の中で、スマホの電源を入れた。起動と共に、キャリアからのメールが入ってきた。確認すると電源を切っている間に着信があったことを知らせるものだった。涼矢からの着信。留守電へのメッセージも、それ以外のメッセージもないが、着信があったという事実だけで、和樹は安堵した。あの涼矢が慌てて折り返しの電話をしてきたなら、今回の件を「この程度のこと」とは思っていないのだろう。
今頃涼矢は、俺があんな風に電話を切ったことに、少しは焦ってくれているのだろうか。不安に思ってくれているのだろうか。そうであってほしい。そうであるなら、今すぐにでも言ってやったほうがいいんだろう。「会いたい」って。そう思いながらも、和樹がその次にしたことは正反対の行為だった。和樹は涼矢の番号を着信拒否に設定した。
分かってほしい。俺があんなことを言われて平気でいられないってことを。連絡手段を絶つほどにショックと思い知ればいい。俺のことがまだ好きなら、それは多少なりとも涼矢への打撃になるはずだ。
俺のことを、まだ誰よりも好きだと言うのなら、の話だけれど。
塾では早坂の指示通りに動いた。いつもとは違う緊張感を伴う、保護者を前にしての説明。でも、今日はそれで良かった。必死にやるしかなかったおかげで、余計なことを考えずに済んだ。そして、保護者も生徒も帰り、後片付けの時になって、この日初めて小嶋と顔を合わせた。
「あ、小嶋先生、あの、これ。」和樹はスーツの襟を指先で強調した。
「早坂から聞きました。良かった、無駄にならなくて。」
「ありがとうございます。」
「ああ、それね、なんだか懐かしいね。」どこからか久家も現れた。
「はい、あの、ありがとうございます。」久家にも反射的に頭を下げた。
「私にお礼は要らないですよ。」久家が笑った。
「いや、でも……久家先生にとっても、きっと大切なものだと思って。」そばには久家と小嶋だけしかいないことを確認しつつ、和樹は心持ち小声で言った。
「あ、それも聞いたんだ?」久家は、若干砕けた口調になったものの、驚く様子はない。逆に和樹に「驚かせたでしょ。」と言った。
「驚きました……けど、あの、大丈夫です。俺。」和樹のほうがしどろもどろになった。「応援してます、から。あ、いや、俺が応援てのも、変な話ですけど。」
小嶋がニヤリと笑って、和樹の肩をポンポンと叩いた。「ありがとう。」それから和樹の足もとに視線を移動させた。「ズボンが少し短いね。」
「都倉先生の足が長いんでしょ。」久家が言う。「小嶋先生が背筋をシャンとすれば、身長は同じぐらいなのにね。」
「うーん。屈辱的だなあ。」
「仕方ないですよ。若くないんだから。」
「足の長さは年齢とは関係ないでしょう。髪の毛が減っていくのとは訳が違うんですから。」小嶋は久家の頭頂部を見降ろして言った。
「僕の頭のことを言うのは反則だって言ってるでしょ。」
和樹はつい吹き出してしまう。2人の間にはそんなルールがあるのだろうか。
「髪は誤魔化せるけど、足の長さは誤魔化せないんだからね、こちらのほうが致命的欠陥ですよ。」
「あ、まだ言いますか。僕はね、この頭の毛を欠陥だなんて思っていませんよ。だから誤魔化すつもりもありません。最後まで、男らしく正々堂々とあるがままです。小嶋先生もね、そうやって、ちゃんと立派に動いて歩ける足を欠陥だなんて言っちゃいけません。長さなんぞは二の次、三の次です。」
「まったくきみは、髪ばかり減って、口は減らないんだから。……おっと、こんな無駄話している場合じゃない。さっさと片付けを済ませましょう。」
和樹も作業に戻った。時折2人の姿を視野の端でとらえた。何か特別なことをしているわけではないが、不思議と2人の間に流れる空気が温かいように感じられた。
ああ。なんだっけ。結婚式の時に言う、誓いの言葉。
「健やかなるときも、病めるときも」ってやつ。確か、貧しい時も、悲しい時も愛し合うことを誓いますか、って、そんな風に続く――。
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