293 / 1020
第293話 VOICE(6)
あと少し残務があるというタイミングで、小嶋はヘルパーとバトンタッチの時間だからと一足先に帰って行った。残された久家がそっと和樹に言った。
「自分だって最近やっと生え揃ったばかりのくせに、あんなこと言うんですから、困ります。」
「え。」
「抗ガン剤で、ほとんど抜けたんですよ。眉や睫毛まで。」
「あ……。そうなんですか。もう大丈夫なんですか?」
「経過観察みたいな状況ですね。」
「それで介護もするなんて、大変ですね。」
「ええ、心配です。私も手伝うって言ってるんですけど、自分の親だからって。昔から言い出したら聞かないんです、あの人は。」
「今って、お2人と、小嶋先生のお母さんと、3人暮らしってことですか。」
「そう。二世帯っていうかね、2軒隣接して建ってて、内ドアでつながってて、行き来できるようになってる。お義父さんがご存命の頃は完全に分けてたんだけど、今はそのドアは開放してあって。お義母さんの様子が分かるようにね。」
「へえ。」
「我々のこと、お義父さんには最後まで認めていただけなくてね。亡くなるまで、そのドアが開くことはありませんでした。」
和樹はハッとして久家の顔を見た。
「お義母さんにしても、痴呆が進んだから、それでやっとです。実の息子の顔も分からなくなって初めて、逆に、私の顔を見ても笑ってくれるようになりました。お義母さん、今じゃ彼より私のほうが好きみたいなんですけどねえ、私は世話させてもらえない。まあね、彼もようやく親孝行ができるのが嬉しいんでしょうね。今まで不義理しかしてこなかったわけですから。」久家は穏やかに微笑んでそう言うが、和樹は返す言葉が見つからない。和樹の戸惑いを察したらしい久家は、より一層の柔和な笑みを浮かべた。「すみません。今までこんな話ができる相手がいなかったもので、つい話し過ぎました。こんな話されたって困っちゃいますよね。まあ、今のは適当に聞き流してください。」
その時、ドヤドヤと非常勤講師たちが上の階から降りてくる物音が聞こえてきた。
和樹は久家に慌てて言った。「俺で良ければ、いつでも聞きます。聞かせてください。」
久家は意外そうにピクリと眉を上げてから、またにっこりと笑って、うなずいた。講師たちが部屋に入ってきて、それ以上の会話はできないまま、その場は過ぎた。
小嶋先生が病に倒れても、2人の仲を認めない親の介護に奔走しても、久家先生が支えてきた。そうやって労わり合って、20年以上も一緒に暮らしてきた2人。"入籍"は遅かったとはいえ、彼らはきっと、まさに「誓いの言葉」を実行してきたんだろう。その過程は決して順風満帆ではなかったと思うし、今だって苦労はあるはずだ。その苦労を愚痴る相手もいないまま、それでも、一緒に年月を重ねて、今は穏やかに微笑んでいる。
なんだ。
ちゃんと、憧れの人たちじゃないか。禿げようが痩せようが、変わらない愛情。俺は彼らの何を見てたんだろうな……。
俺たちだって、ああなろうと思ってたはずなのに。
いや、今だって、俺は。
バイトから帰宅して、スマホを手に取る。涼矢に、言ってやるべきか? 哲とのハグのことはもういい、許すと。変わらず好きだと。でも、その言葉が意味を持つのは、涼矢の気持ちがまだ俺にある時だけだ。もし、もしも、涼矢が少しでも哲に傾いているのだとしたら、俺はもう「過去の人」なんだ。いつまでもしがみついているなんて、みっともないことこの上ない。誰にも渡したくないけど、それでも、涼矢が哲を選ぶなら……。
和樹は再びスマホを充電器に置いた。とりあえず今日はやめておこうと思う。時間をくれと言った手前もある。
昨日の今日でこっちから連絡したんじゃ、あまりにも軽すぎる。あいつのことだから、俺が着信拒否していることにすら気付いていないかもしれない。そうだ、あいつにだって時間は必要なはずだ。少しは思い悩めばいいんだ。
涼矢が好きだということを再確認して。
小嶋と久家の関係を見直し、あんな風になりたいと改めて憧れて。
けれど、すぐに涼矢を許す気にもなれず。
ゴチャゴチャといろんな感情が押し寄せて、混乱は収まらないまま、和樹の一日が終わった。
前夜の寝不足が祟り、翌朝は寝坊した。月曜日の今日、通常通り講義はある。そう都合よく休講になどなるわけもない。結局1時限目には間に合わなかったが、なんとか2時限目には滑り込めた。
2時限目は生徒数が多い講義で、小講堂で行われる。その部屋に入ろうとした時、背後から肩を叩かれた。学年も学部も同じ、サークル仲間でもある渡辺だ。大学で知り合った連中の中では最も親しい。「よ。今日はやけにシケたツラしてんな。」
「そうか? 今朝、寝坊してさ、1限サボっちゃった。」
「都倉が寝坊するなんて珍しいな。なんか悩みごとでもあるわけ?」まったく心配していなさそうな口調で渡辺は言う。
「ないよ。」和樹は苦笑する。空いていた席に座ると、当然のようにその隣に渡辺も座った。
「あるわけないよなあ。」
「なんでだよ。」
「だって彼女いるし。充実してんじゃん。」
「なんでそれだと悩みないんだよ。いるからこその悩みだってあるだろ。」
「なーるほど。」渡辺はそこで声をひそめた。「なあ、おまえさ、ホントに、川崎さんとか茅野さんとか、なんもないの?」川崎さんとは彩乃のことで、茅野さんとは舞子のことだ。
「なんもって……なんもないよ。」
「じゃあ、俺がどっちかに告ったり、どっちかとつきあうことになっても、文句ないよな?」
「ないよ。けど、どっちかって何だよ。どっちが好きなの?」
「どっちでもいい。どっちも可愛いじゃん。で、どっちもおまえに惚れてる。」
「そんな馬鹿な。」
「またまた、もう。」
渡辺が冷やかしているところに教授が入ってきて、その話はそこで中断された。
ともだちにシェアしよう!