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第294話 VOICE(7)
講義が始まってからも和樹は上の空だった。彩乃ちゃんだろうが、舞子ちゃんだろうが、もし俺がつきあっているのが、ああいう普通の女の子で、会おうと思えばすぐ会えるところにいるんだったら、こんなことにはならなかった。東京の大学を選んだのは自分だけれど、こんなことになるなら地元にいれば良かった。涼矢の近くにいたかった。そんな、今更どうしようもないことをまた考える。
すり鉢状の小講堂では、真ん中の一番低いところに教壇があり、学生のほうが目線が高くなる。和樹の席からも講義をしている老教授の禿げあがった頭がよく見えた。ふと久家を思い出し、そして小嶋を思い出した。あの2人は、脱サラ前からの知り合いで、20年以上も生活を共にしてきたと早坂が言っていた。好きな人とそんなに長くずっと近くにいられたことを羨ましく思う。でも、そんな「幸せ」な関係を、彼らは公にできないまま暮らしているのだ。それがどれほどのストレスなのか、和樹はまだ想像しきれない。今、涼矢と離れているのは淋しいけれど、だからこそ、大学の友達には「遠距離カップル」というだけで、それ以上の余計な詮索はされずに済んでいる。これが近くにいようものなら、渡辺のような奴からは、彼女に会わせろだの、彼女の友達と合コンでもセッティングしてくれだのと、うるさく言われていたに違いない。隠す前提なら、遠距離恋愛というのは煙幕として有効ではあった。
涼矢も、哲も、大学でゲイであることを隠してない。あいつらがつきあうなら、オープンにできるってことか。みんながみんな、あいつらを受け容れられるわけでもないだろうが、あいつらの「優秀さ」は、そういった人たちでさえ黙らせるには充分だろう。あの2人だったら、ゲイカップルとして、胸張ってキャンパスを歩けるんだ。胸やけするようなむかつきを覚えながら、そんなことを考えてしまう。
「都倉。」渡辺が和樹の腕をつついた。「どうしたんだよ。講義、終わったぞ。」
「あ……ああ。」和樹はのそのそと立ち上がった。
「今の、ろくにノート取ってなかったろ。要るならコピーするぜ?」
「ありがとう。お願い。あ、できれば1限のも。」
「いいよ。じゃ、今、コピーしに行くか?」
「うん。」
大学生協の近くにあるコピー機に向かって、渡辺と2人で歩きだした。
「彼女と揉めてんの?」
「いや……。」と言いかけて、言い直す。「実はそう。」
「他に好きな人ができました、なーんて言われちゃったとか?」
「……。」
「あ、マジでそれ? ごめん。」
「ちょっと違う。」
「なになに。」
「楽しそうだな?」
「そんなことないよ。でも、ちょっと嬉しいよな、うん。」
「人の不幸がそんなに嬉しいかよ。」
「そうじゃなくてさ、都倉も人の子だなっていうか。」
「なんだよ、それ。」
「だっておまえ、イケメンでモテるし、チャラチャラしてんのかと思ったら意外と真面目だし、遠距離の彼女にも一途だし? そんな全方位型イケメンなんてさ、俺みたいなモテない奴にとっちゃ敵でしかないじゃんか。そのおまえがそんな風に思い悩むときたら、キュンってしちゃうよね。」
「意味分かんね。」
コピー機のところまでたどりつき、和樹がコインを投入し、渡辺がコピーを取りはじめた。その手元を見つめながら、涼矢が哲と接近したきっかけが「ノートのコピー」だったことを思い出した。
「渡辺さぁ。」
「ん?」
「俺のこと、好き?」
「俺よりモテる奴は嫌いだ。けど、今は思い悩んでるから好き。」
「なんだそれ。」和樹は笑った。渡辺とは逆立ちしても恋愛関係には陥らないと思う。
「で、なんなの、彼女とのケンカの原因。」
「んー。他の奴と一晩、ベッドを共にしたそうで。」
「うわ、それ、ガチの浮気じゃん。」
「でも、Hはしてないって言ってる。ハグしてただけだと。」
「そんな馬鹿な。ひとつのベッドだろ? ヤッちゃてるだろ、それは。」
「いや、本当にハグ止まりなんだと思う。そういう嘘つく奴じゃないからさ。でもさ、逆にヤッちゃってるほうが、勢いでの過ちって感じするけど、抱き合って、でもそれ以上進まないってのが、マジっぽくて。」
「ああ、確かにそのほうが生々しいな。ヤるのは性欲だけでもイケるけど、ハグ止まりで一晩過ごすって、相当好きじゃないとできないよね。で、それを彼女から言ってきたの? おまえが現場に踏み込んだってんじゃなくて?」
「うん。向こうから、俺に謝らなきゃいけないことがあるって……。」
「いやあ、謝るも何も、それって別れ話だろ? そうでなきゃ黙ってるだろ、遠距離なんだし、言わなきゃバレないんだからさ。」
「だよね。」
「それでもそんな顔してるってことは、都倉はまだ好きなんだ、彼女のこと?」
「……うん。好きだよ。」
「すげえな。そんなことされても許せるんだ?」
「許せるって言うか……。許すしかないって言うか。けど、向こうが俺と別れたいんだったら、許さないで、このまま別れたほうがいいのかな、とも思うし。」
「そんなの彼女の思う壺じゃん。私は謝ったんだけど彼は許してくれなかったから、って、おまえを悪者にして別れる気だぞ、それ。」
「どうしたらいいだろうな?」
「いいじゃん、許せるなら、許せば。だって好きなんだろ? 別れたくないなら、捨てないでぇって、すがりついときゃいいじゃん。」
「ヒトゴトだと思って。」
「いやぁ、楽しいからね。イケメンがみじめったらしく、女にすがりついてるってのがね。」
「そういうこと言ってるからモテねえんだよ。」
「あ、ひっど。コピーやらないぞ。」
「金は出したんだから、ちゃんと寄越せよ。」
ちょうどコピーが終わり、渡辺が釣銭とコピーの束を和樹に渡した。「ほらよ。」
「サンキュー。」
「俺だったらそんな女、願い下げだけどさ。」
「そうだよな。俺だってこれがおまえの話だったらそう言うわ。」
「惚れてるねえ。」
「まあな。」
「そんなに良い女か。」
「うん。」
「今度会わせろよ。東京来たら。」
「そのうちな。」"彼女"じゃないけど"恋人"なら、渡辺はもう会ってる。バーベキューの時に。……だが、言えなかった。次の講義はそれぞれ別だったから、そこで渡辺と別れた。
別れるつもりでもなきゃ、そんな話を持ち出さない。渡辺の指摘はもっともだと思った。だが、渡辺は涼矢の性格を知らない。あいつは、ただ馬鹿正直なだけだ。かけひきめいたことをする奴じゃない。どうせ俺に嘘をつき通せる自信がなくて、そのまんま言っただけなんだ。でも、別れるつもりが微塵もないかどうか……それは分からない。正直に伝えて、俺が別れを切り出すなら、それを甘んじて受けよう……なんてことなら、考えている可能性がある。だって、あいつ、馬鹿だから。頭良いけど、そういうところは、とにかく馬鹿だから。
なんて、俺もひとのこと言えねえけどな。こんなことされても、あいつを好きなままだなんて、馬鹿としか。
どうせ馬鹿なんだから、みっともないとか、みじめったらしいとか、気にしなくてもいいのかな。あいつにすがりついて、捨てないでぇ、って言えばいいのかな。
そうすれば、これからだって、うまくやって行けるのかな。
いいや。
そんな俺を、あいつは好きになってくれない。
愛玩犬みたいに媚びない俺を、だから好きなのだと、涼矢は、言っていた。
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