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第297話 VOICE(10)

「ふざけんなよ、こんなところで。」 「誰も見てないところならいい?」 「なわけねえだろ。」 「なあ、今、俺のことで頭いっぱいだろ? 都倉くんのこと、消えてただろ?」 「それは、おまえが変なことするから。」 「フィジカルな刺激ってのはさ、やっぱり強いんだよ。今、分かったでしょ? 俺にただ顔近付けられただけで、ドキドキして、どんなに大事なことを考えていても一瞬で頭から消えちゃう。」 「ドキドキなんかしてねえよ。びっくりしただけで。」 「びっくりすりゃドキドキするだろ。吊り橋効果と同じだよ。とにかくさ、結局は肉体的な刺激を与えるのが、一番手っ取り早く相手を陥とせるってこと。高価なプレゼントを無言で郵送するより、手書きした手紙のほうがドキッとするし、それより電話で相手の名前を呼んで愛の言葉でも囁いたほうが印象は強い。でも、一番は、実際会って、触れること。電話で言い訳するより、直接会ってぎゅーって抱いて、チューのひとつもしたほうがずーっと効果があるよ。」 「……。」 「以上、哲ちゃんの特別講義でした。じゃ、俺、これから英文の講義聞きに行くから。響子たちと約束してるんだ。」そのままコーラのペットボトルを小脇に抱え、哲は立ち上がった。「あ、そだ、今日から有栖川さんとこ、正式にお世話になる。今週は引き継ぎ兼ねて大体毎日いるから、顔出してね。1人でじぃっと連絡待ちしてても、ろくなこと考えないだろ?」言うだけ言うと、手をひらひらさせて、去っていく。  あいつは何しに来たんだ。涼矢は遠ざかる哲の背中を見た。――あいつなりに、気にしてくれてる、のかな。  涼矢の次の講義は休講だった。その空き時間を利用して大学図書館に寄り、レポートの続きを作成することにした。哲なら本当に「チョロッと」続きを書いてしまいそうだが、そこまで頼る気はない。今のうちに最後まで書き上げてしまおうと思った。 ――いつ和樹から連絡があってもいいように。  いつの間にか、哲のアドバイス通り、「和樹から連絡があったら、すぐにでも飛んでいく」つもりになっていた。着信に気が付かないということがないように、マナー違反を承知で着信音量を最大に設定したままにする。家に帰ってからも、ずっとスマホを持ち歩き、果てはバスルームの中にまで持ち込んだ。そんな風にして着信を気にしながら、夕食も摂らずに、図書館でも書ききれなかったレポートを書きあげると、哲のPCに送りつけた。「稚拙に思えるところがあっても、一言一句書きかえるな」と書き添えて。そこまでした涼矢だったが、この日、和樹から連絡が来ることはなかった。  深夜、アリスの店を終えて無事に帰宅したらしい哲から、メッセージが来た。 [レポート受け取った。読むとケチつけたくなるから、見ないで提出するよ] [普通に自分で出すかもしれないけど] [ということは、都倉くんから連絡、まだないの?] [ない] [ご愁傷さま]  それ以上は返信する気も起きずに、放置した。  体を引きずるようにしてベッドに入る。当然あの直後にシーツも枕カバーも取り替えたが、ここで哲を抱いて寝たことが嫌でも思い出される。細い首。華奢な肩。薄い胸。その脆さはエミリのような女性のそれとも違っていて、成長しきっていない思春期の少年のようで、ある種の庇護欲を惹起するものではあった。倉田のような年長者なら尚更、哲のあの脆さを「どうにかしてやりたい」と思ってしまうのも無理はない。しかも、あんな傷を目にしたなら。  でも、それが過ちのすべてだ。『おまえは、ハグぐらい大したことないって思ったんだよ。』その通りだ。哲のために何かしてやりたい。あの時、確かに俺もそう思ってしまった。抱きしめてやるぐらいなら。その程度なら。そう思ってしまった。  もっと言ってしまえば。  和樹とつきあっていなければ、哲の誘いにも応じたかもしれなかった。性欲があれば、恋愛感情がなくたって、セックスはできる。触れるのも触れられるのも嫌だと思うほど、哲を嫌悪しているわけでもない。お互い特定の相手がいない状況で、後腐れなくそういう関係を結べるとなれば、断る理由なんか探さなかったかもしれなかった。  そうしなかったのは、俺には和樹がいたからだ。"ハグ止まり"に抑えたのは、和樹を裏切りたくないという、俺の誠意の証だと思っていたし、和樹だってそう理解してくれるものだと、だから和樹の信頼を損なうことはないはずだと、今の今まで俺は思ってた。……けど。  そうじゃないんだ。  和樹は知ってたんだ。  一晩中抱きしめていられる相手なら、セックスもできるんだって。 『ハグはしたけど、それだけだよ、セックスは我慢したよ。だって俺は、おまえを愛しているから。キスすらしてないんだから、許してくれるよね?』  俺が和樹に伝えたのは、つまりはそういうことだ。そんなことを馬鹿正直に伝えて、何が誠意だ。何が愛だ。そんなことを言われた和樹がどれほど傷ついたか、今になって分かる。  今更そんなことが分かっても、俺は、ただ、待つしかない。

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