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第298話 VOICE(11)
涼矢は、いったん充電器に置いたスマホを、再び手に取った。保存してある写真を見た。ここ最近の画像といったら、メモ代わりに撮った学生向けの掲示物だったり、そのうち買おうと思っている少し高級なイヤホンの広告だったり、そんなものしかなかった。そんな数枚の画像はスルーして指を滑らせて行くと、和樹と自分が頬を寄せ合う画像が簡単に出てきた。動画もだ。和樹が普通の写真を撮るふりをして、こっそり撮影していた例の動画だ。サムネイルを見ただけで泣きそうで、再生などできなかった。
翌日。いつもと変わらぬ朝が来た。眠りはしたが、疲れ切ったままだ。リビングには佐江子の姿はなく、既に出勤してしまったらしい。異変に気付く人がいないのをいいことに、昨夜に引き続き食事はせずに水を飲んだだけで、大学に向かった。
「おはよ。」早速の哲だ。1時限目が同じ講義だから仕方ないのだが。
「ん。」
「もう、反応薄いなあ。昨日も既読スルーで未読スルー。ひどいよね。」
「期待するなよ。状況は分かってるだろ。放っといてくれ。」
「分かるけどさ。俺だって失恋のショックからまだ立ち直ってないし?」
そう言えばそうだった。哲が倉田と別れて、もう2ヶ月が経とうとしている。いや、まだ2ヶ月も経過していない、と言うべきだろう。
「俺はまだ失恋と決定したわけじゃない。」
「おや、強気。そんな死にそうな顔してるくせに。」
「るせ。」
「悪いとは思ってるよ。」
「あ?」
「俺が疫病神みたいなもんだから。」
「……別にそんなん思ってねえよ。」
「な、気分転換に店に来いよ。今日もバイト入ってるから。昨日からはホールやってんだけどさ、やっぱ俺、裏方より接客のほうがいいな。楽しい。」
「そりゃ良かった。」
「アリスさん、すげえマッチョでさ、腕の筋肉なんかカッチカチやで! 力こぶ、触らせてもらっちゃった。」
「何やってんだよ。」
「ムサシもすげえムキムキ。カポエラやってんだって。すごくない? あ、ムサシ分かる? 洗い場にいた、アリスさんの息子な、あいつも俺らと同い年だって。昼は調理学校に通ってるって。」
「手ぇ出したりするなよ?」
「しないよ、大事なお仕事なくしちゃう。つか、失礼だよな、俺が男と見れば見境ないみたいに。俺にだって好みはあるんだっての。マッチョは苦手。おつきあい相手としてはってことで、仕事仲間としては問題ないけど。」
「おつきあいするなら、倉田さんみたいな優男がいいんだろ。」
「そ。でも本当はもっと背が高い人が理想なんだよなあ。」哲が倉田に面影を探していたであろう、"本当に一番好きな人"である義父は、背が高いのだろうか。そんなことを思っていると、哲は涼矢に意味ありげな視線を送りながら言った。「で、ちょっと物憂げで、愛想がなくて、おしゃべりじゃない男。クールに見えて、実は恋人に対しては情熱的で、アソコがでかかったら言うことない。」
涼矢は冷たい視線を哲に返す。「そういう人が見つかることを祈ってるよ。たぶん、ろくでもない奴だと思うけどね。」
「俺はいつでもウェルカムだよ? 振られたらおいで。」
「行くか、馬鹿。」
「はは。」哲と一緒に教室に入り、いつもの定位置にそれぞれ座る。2人とも前の方だ。
その教室は、空調が故障して暑くなり、哲が長袖を脱いだ例の教室だった。哲の腕に無数の傷があることを初めて知った、あの日。そんなことを思い出しながら、哲がアリスの話をしたり、店に来るように誘ったり、きわどい冗談を言ったり。やはりそれは、俺を少しでも力づけようとしてのことなんだろう、と涼矢は思う。
間の講義は別々だったが、この日最後の講義はまた哲と一緒だった。哲は慌ただしくテキストを片付けると、涼矢のところに小走りでやってきた。「田崎、まっすぐ家に帰る?」
「ああ。」
「じゃ、一緒に帰ろ。俺は店に直行だから。」アリスの店も涼矢の自宅も最寄り駅は同じだ。
涼矢はそれを断らず哲と一緒に帰途についた。電車の中でも隣りあって座った。「バイト、そんなに毎日詰め込んで、大丈夫なのかよ。終電近くまでやってるんだろ?」
「うん、でも毎日入るのは今週だけだしね。来週からは週4日だけ。」
「それでも多いよ。」
「試験前は休むし、入れられる時は入れとかないと。」
「まあ、体壊さない程度に。」
「おや、心配してくれてるの?」
「……別に。」哲のあの華奢な体が脳裏をよぎる。
「大丈夫、前より健康的な生活してるよ。」
「前がひどすぎただけだろ。」
「ご飯も美味しいしね。おまえが大食いだなんて言ったから、すごい量の賄い出てくる。昨日なんか食い切れなくて、そしたらアリスさんがパックに詰めてくれてさ、今日の昼飯にしたよ。あ、おまえは今日何食べたの? また学食?」
「食ってない。」
「昼抜き? なんで?」
「食欲があんまり。」
「なんだよ、人の健康気にしてる場合じゃないじゃん。」
涼矢は曖昧な笑みを浮かべた。その代わりに、哲のほうから笑顔が消える。
「朝も食ってない?」
「食ってない。」
「昨日の夜は。」
「……。」
「重症だな。」
「笑いたきゃ笑え。」
「なんで笑うよ?」
「みっともないだろ。」
「みっともないことあるかよ。じゃあ、ますます、ごはん食べに来なきゃだな。腹が減っては戦も出来ぬ、だ。都倉くんを押し倒すこともできない。」
「気が向いたら行くよ。」
「絶対来い。なんならこのまま一緒に直行するか?」
「いや、一度家に帰る。うちの方面のバス、夜は本数少ないし、8時前に終わっちゃうんだ。行くなら車で出直す。」
「分かった。絶対来い。」
「気が向いたら。」
同じやりとりをもう一度繰り返して、やがて電車は駅に着いた。涼矢はバス停へ、哲はアリスの店へと別れた。
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