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第299話 VOICE(12)

 家に着くと、テーブルの上に佐江子からの伝言メモと1万円札が置いてあった。どうやら一度帰宅し、また出かける用事が出来たらしい。遅くなる、場合によっては今夜は帰れないかもしれないと書かれていた。1万円は夕食代プラスアルファの意味だろう。せめて佐江子がいるなら夕食も作ったところだが、こうなるともう、本格的に何もする気が起きなくなる涼矢だった。  和樹からの連絡は、まだ来ない。  和樹は、カップラーメンの出来あがり時間を確認しようとして、時計を見た。帰宅してからだいぶ時間が経過したような気がしていたが、まだ午後の8時にもなっていなかった。アルバイトのない日は時間が過ぎるのが遅い。今日はサークルもなく、まっすぐに帰宅したから余計だった。早く帰ったところで出迎えてくれる人がいるわけでもないが、予定では、数日後には涼矢が来てくれるはずだった。それに備えて少しは掃除でもしておこうと思って、あえて何の予定も入れずにいた今日という日だ。だが、掃除も何も、そんなことをする気には到底なれない。  予定通り……来て……くれるのかな。  心の中で呟く。  いや、来ないだろう。だって、俺のほうが「来るな」と言わんばかりの態度を取っているんだから。俺が「待て」と言ったら、文句も言わずにいくらでも待つ。そういう奴だ、涼矢は。犬と呼んでくれたっていいなんて、悪い冗談だと思ってたけど、本当にそういうところがある。  じゃあ、「来い」と言えば来るんだろうか。まっすぐに俺めがけて、来てくれるだろうか。こんな風に一方的にシャットアウトした俺のところに。  こんなことを考えるということは、つまり俺は、「来てほしい」って思ってるんだよな。それなら、やることは決まってる。着信拒否の設定を解除して、電話でもメールでも、あいつに一言、「会いたい」って伝えればいい。それを躊躇わせているのはなんだろう? 哲への嫉妬か? 涼矢の心変わりへの不安か? それとも、俺はまだ、あいつを許せていない? 「許してるっつの。」その想いは、声になってこぼれた。許してる。とっくに許してて、だから、会いたい。素直にそう言えばいい。それだけのことが何故できない?  俺は、許してる。  涼矢は? 涼矢は、こんな風に連絡さえ拒否した俺を、どう思ってる? 嫉妬深い奴だと煩わしく思ってる? このまま自然消滅でも仕方ないと諦めてる? 自分のしたことを後悔して謝りたいと思ってる? ――今も、俺に会いたいって、思ってくれてる?  和樹はようやく、スマホを手にした。  着信拒否の設定を解除した。  そして涼矢に電話を掛けるため発信ボタンに触れようとして、やめた。  今、涼矢の声を聞いてしまったら、自分が何を言い出すか分からない。  通話からメッセージ作成画面に切り替えて、文字を入力しはじめた。  涼矢はアリスの店にいた。この前案内されたのと同じカウンター席だ。カウンターはアリスとバーテンダーがいたから、逆に哲とは話すきっかけがなかった。哲はテーブル席を中心に動きまわっている。今日はまだ前任の「女優の卵」の子もいるが、彼女とも常連と思われる客とも、すっかりなじんでいる様子が見て取れた。 「涼矢くん、なんか元気ないわねえ。」とアリスが言った。 「あんまり食欲がなくて。咽喉を通らないっていうか。」 「まあ。じゃあ、今日は消化の良いもの食べる? おうどんもあるし、雑炊もできるわよ。」アリスは食欲がない理由は聞かずに、そんな風に言う。 「……うどん。」涼矢がぽつりと答えた。 「玉子は大丈夫?」  涼矢はコクリとうなずいた。 「はーい、ご注文承りました。」アリスは厨房に行って一言二言シェフに告げると、すぐに戻ってきた。 「なんか、すげえ甘えてますよね、俺。」 「いいわよぅ。」アリスが顔を寄せて、内緒話のように言った。「さっちゃんが母親じゃあねぇ、甘えたくても甘えられないでしょう?」  涼矢はつい吹き出した。久々に笑った気がする。「そうだ、俺、この間無銭飲食しちゃって。あの分、今日の会計に入れてください。」 「あら、さっちゃんのツケにするかと思ったわ。」 「あの人、今日、メシ代多めに置いてったから。」 「ふふ、さっちゃん流の甘やかし方ね。」 「……そう、ですね。」結局自分は親の金の範囲で生きている。それも人並み以上の豊かさで。それは甘えなんだと、すぐそばでバイトをしている哲を見ながら、痛感する。  親にも、和樹にも、哲にも甘えて。今はまたアリスにも甘えている。  1人で生きてきたつもりでいた。自分のことなど誰にも理解されないと思っていたから。でも、その傲慢さが、こんな状況を作った。本当は1人でなんか生きられない。 「お待たせしました。」アリスはわざわざカウンターをぐるりと半周して、涼矢のところにうどんの丼を置いた。「熱いからね、気をつけて。」  メニューにあるのは焼きうどんだけだ。だが、涼矢の前にあるそれは、黄金色したつゆに浸っていた。上には少量の野菜とかまぼこが載っていて、そして玉子が落としてある。ありあわせの具なのだろうが、涼矢のためだけに作られた特製うどんに違いなかった。 「足りなかったら言ってね。何か作るから。」 「はい。ありがとうございます。」涼矢は箸で持ち上げた麺をふうふうと吹いて冷ましてから、1日ぶりに固形物を口にした。それはつるんと咽喉を通り、胃の中を温かくした。刺激を感じないほどかすかに生姜の風味がする。

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