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第300話 VOICE(13)

 哲が厨房に料理を取りに来た。涼矢のうどんをチラリと見る。「あ、いいな。美味しそう。俺も今日それ食べたい。」 「はいはい、セイさんに言っときなさい。」とアリスが笑った。仕方のない子ねぇ、とでも言いたげに目尻を下げている。涼矢はそれを見て安心した。哲も、この人になら素直に甘えられそうだと思う。暴力やセックスと引き換えではない優しさを、アリスなら哲に与えてくれる気がした。  その直後に、人の心配してる場合じゃないだろ、と自分に言い聞かせた。  うどんを半分ほど食べ進めたところで、卵黄を箸でつついて、割った。気持ち掻き混ぜて、少し濁ったつゆを味わう。次にはそこにうどんを絡めて。そんな風にして食べ終わった頃には、お腹はほかほかと温まっていた。けれど、足りない。満たされていないのは空腹感ではなく、心のほうだ。どんなに胃を膨らませても、そこにアリスの心尽くしが含まれていると分かっていても、心の欠落部分は埋まらない。 「お済みのお皿、お下げしてよろしいでしょうかぁ?」わざとらしい慇懃さで哲が丼に手をかけた。  それと同時だった。  涼矢のスマホから、電子音が響いた。 「あ。」声を出したのは哲のほうだ。  電話の着信音ではない。メッセージの着信音だった。それでも良かった。何だって良かった。スマホの通知欄には、発信者の名前が表示された。  和樹。  涼矢はメッセージ画面を、恐る恐る、しかし素早く開いた。哲も同じ画面を覗き込んだが、止めはしなかった。 [金曜日、来られる?]  涼矢は哲と顔を見合わせ、「これ、どういう意味だと思う?」と聞いた。 「少なくとも、来るなとは言われてないな。」哲は微笑んだ。哲の笑顔を見て、「文字より電話で話したほうが印象的」と言われたのを思い出した。電話で話すなら、さすがにこの場は気恥ずかしい。涼矢は「ちょっとごめん。」と哲に言い、店を出た。 [電話してもいい?]  店の前でそう送信した。すぐに既読になったが、しばらく返事はなかった。待ちきれずに電話を掛けてしまおうかと思った矢先に、やっと返事が来た。 [電話は無理。ちゃんと伝えられる自信がない][だから、会った時に話したい]  少なくとも来るなとは言われてない。さっきの哲の言葉を噛みしめる。[会った時に]という文字を何度も確かめる。会えるのだ。だったらいい。 [わかった] [ごめん]  謝ったのは和樹だった。なんでおまえが謝るんだ。謝るのは俺だろう。謝られると不安になる。ごめん、もうつきあうのは無理だ。ごめん、涼矢の気持ちには応えられない。「ごめん」の先に続くはずの言葉に嫌な予感しかしない。でも、会ってはくれるのだ。今はそれにすがりつくしかない。 [行くよ] [うん][俺がいない時でも勝手に入っていいから]  勝手に入る。そのための和樹の部屋の鍵の所在について、頭を駆け廻らせる。大丈夫だ。確か財布に入れたままだ。 [行くから]  念押しのように、そう送信した。既読にはなったが、その先の返事は来る気配はない。だが、会いに行くことを許された。それだけで良い。自分からそれ以上何か言う必要も感じなかった。涼矢は店内に戻った。  店のドアを開けると、レジを打っていた哲が振り返り、目が合った。何か言いたそうな表情をしていたが、私語を交わせる状況でもない。涼矢はさっきの席に戻る。 「アリスさん。お会計をお願いします。」そう言うと、アリスはにっこりと微笑んだ。 「随分と顔色が良くなっちゃって。うどんのおかげではなさそうだけど。」 「いや、あの……。」  レジ作業を終えた哲が飛んでくる。「行くの?」 「行く。」 「このまま行く?」 「車で来たから、行こうと思えば行けるけど……。何も持ってきてない。」 「財布はあるんだろ。行っちゃえよ。取るものも取り敢えず駆けつけたってところに、あっちはキュンとするんだから。」  有無を言わせぬ勢いでそう言う哲に気押されて、「……ああ。そうする。」と答えた。 「良かったな。」哲は口角を一層引き上げて笑った。 「まだ、よく分かんないけど。」 「でも、一歩前進。」  思った以上に自分のことのように喜んでくれる哲に、逆に戸惑う涼矢だった。それだけ心配してくれていたのか。 「あ、そうだ、哲でも分かるのかな? 金額。前回の分と合わせて。」涼矢は財布を取り出した。本来は小銭を入れるべき仕切りに、鍵があることをこっそりと確かめる。 「いいわよ、さっちゃんにツケとくから。」アリスが言った。「なんだか知らないけど、どっか行くんでしょ? お金はあったほうがいいんでしょ?」 「アリスさん……。」 「急ぐんじゃないの?  取るものも取り敢えずとかなんとか、言ってたじゃない?」 「はい。すみません。」涼矢は上着とバッグを手にして、店を出た。急いで車に乗り込む。エンジンをかける直前に、いったん落ち着こうと深呼吸をした。こんな気持ちで走り出したら、無謀な運転をしかねない。もう一度、さっきの和樹からのメッセージを読み返そうとスマホを手にして、確かめた。すると新着のメッセージが来た。佐江子からだった。今日は泊まりだという内容を見て、自分も返した。 [俺も出かける][数日留守にするかも] [どこ行くの] [和樹のところ]入力しながら、手が震えた。[ちょっと事情があって][車で今から行くから][急でごめん] [了解][長距離初めてでしょう][気をつけて行きなさい] [はい]  大学を休むことになるのはわかっているであろうに、佐江子も理由を問いただすことはしなかった。さっきのアリスと同じだ。  もう一度深呼吸をしてから、車を走らせた。

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