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第301話 VOICE(14)
涼矢は夜の高速道路を運転していた。道路は混んでいなかったが、都心部に向かう長距離トラックに挟まれたりすると少し緊張した。しかも東京に近づくにつれて雨まで降り出した。そう言えば、季節外れの台風が東京を直撃する恐れがある……などと、テレビで言っていた気がする。
傘、持ってきてないなあ。
ぼんやりとそう思った。傘に限らず、何も持ってきてはいないけれど。財布だけだ。財布の中に和樹の部屋の鍵が入っていたことが奇跡みたいだ。
2人で上野動物園に行った時にも、急な雨にたたられた。慌ててビニール傘を買って、雨の中、動物を見た。洗濯物は洗い直す羽目になった。でも、楽しくて仕方なかった。動物園での和樹は、ずっと笑ってた。
3時間半ほどの行程を、涼矢は和樹の笑顔の記憶を拠り所にして、走り続けた。
都内に入り、和樹のアパート周辺までたどりつくと、一安心すると共に、密集した住宅街の細い路地に難儀した。見通しも悪いし、一方通行も多い。何より駐車場だ。空地なんかないし、路上駐車も気軽にできない。なんとかコインパーキングを探しあてて、ようやく停車する。だが、そこから和樹のアパートまで徒歩で数分かかりそうだ。雨さえ降っていなければなんてことはなかったが、雨脚は一段と激しさを増していた。
しばらく待てば少しは収まるかもしれなかった。だが、ここまで来て、しばらく待つ、なんてできなかった。涼矢は車を降りて駆け出した。
アパートの濡れた階段で滑りそうになりながらも、必死で駆け上った。2階の一番奥。相変わらず表札もない、和樹の部屋の前に立つ。
ドアホンを鳴らした。応答機能のない、シンプルなドアホンだ。すぐには反応がなかった。気がはやり、いっそドアを叩きまくって、和樹の名前を連呼したい衝動に駆られたが、もう深夜で、日付も変わろうとする時間帯だ。和樹は寝てしまっているのかもしれない。起きているとしても、こんな時間の訪問者は警戒するに違いなかった。それがこの反応の遅さの理由だろうと自分に言い聞かせて、しばらくドアの外で待った。
果たして、ドアが、薄く開いた。
恐る恐るといった風情で、その合間から和樹の目が外を窺った。
そして、涼矢の姿を認めた。
「え……?」
涼矢はドアを手で押さえた。和樹が反射的にドアを閉めたりしないように。だが、それは杞憂だった。和樹はドアを全開にした。
「何やってんだよ。そんな、ずぶ濡れで。」久しぶりに聞いた和樹の声は、そんなセリフだった。和樹は雫を垂らしている袖をつかみ、涼矢を中に引き入れた。
「入って、いい?」
「当たり前だろ。」和樹は先に部屋に入ると、バスタオルを手にして、玄関で立ち尽くす涼矢のところに戻ってきた。そして、涼矢の濡れた体を拭きはじめた。
「ありがと。自分でやるから。」涼矢は和樹からタオルを受け取った。和樹はまた部屋に上がり、今度はバスルームへと消えた。湯をためる音がした。風呂の準備をしているのだろう。次に戻ってきた時には洗濯物かごを持っていた。
「濡れてる服、脱いで、ここに入れて。」玄関先にかごを置く。そして今度は乾いた服を持ってきた。「これ着ろよ。あと、今、風呂沸かしてるから、沸いたら、入れ。」
「うん。ありが……。」語尾は聞こえなかった。涼矢はタオルを床に落とし、和樹を抱きしめた。和樹のほうは着替えをばさばさと落とした。
そして、和樹は涼矢の背中に腕を回した。
涼矢はすっかりずぶ濡れで、そんな風に抱き合えば和樹まで濡れる。2人とも分かっていた。けれど止められなかった。
和樹の手が、涼矢の頬に当てられた。涼矢の髪の先からも水滴がしたたっている。雨で冷え切った頬は、だが、そこに本当に涼矢がいることを実感させてくれた。涼矢の目を見つめて、それから、目をつぶった。
涼矢が唇を重ねてきた。その唇も冷たい。それでも、何度も繰り返し唇を合わせているうちに、和樹の熱が伝わっていき、熱い口づけとなった。
「好きだよ。愛してる。」涼矢の声が聞こえた。
「……俺が先に言うつもりだったのに。」和樹が、フッ、とかすかに笑った。「とにかく、上がれよ。」和樹は涼矢から離れた。そのついでに風呂の様子を見にバスルームに行くと、すぐに戻ってきた。「風呂、もう入れる。脱いだらそのまま入りなよ。」
「うん。……ごめん、和樹も、濡れちゃって。」
和樹は自分の胸元を触り、濡れ具合を確認する仕草をした。「平気、すぐ乾くよ、これぐらい。」
涼矢は和樹に言われた通りに、玄関先でぐっしょり濡れた服を脱いだ。靴下までびしゃびしゃだったから、確かにこのまま部屋に上がらなくて良かった、と今更思った。内側に着ていたシャツと、下着は身に着けたまま、バスルームへと向かう。間抜けな格好だなと思うが、全裸よりはマシだと判断した。
涼矢は、窮屈なバスタブに身を沈めた。だが、その狭さのおかげですぐにお湯が沸く。随分と熱めの湯温だ。和樹が、自分の冷えた体をどうにかしようと思ってくれてのことだろうと察する。
――こんな時でさえ、和樹は優しい。
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