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第311話 NOISE(9)
愛しい恋人の名を呼ぶこともしなかった。それはいつも自室でする時と同じだ。下着の中につっこんだ手は自身の放出したもので汚れたが、下着とジャージはほとんど汚さずに済んだ。当たり前だ、何度同じことしたと思ってる、誰にもバレないように下着を汚さずに"出す"ぐらい慣れてる。そんな、誰に言う必要もないことを思いつつ、ティッシュで後始末をする。
一度だけ。
高校の頃の一度だけだが、副部長の仕事で遅くなって1人きりで更衣室に残った時、和樹のロッカーを開けて、その中に置いてある和樹の私物を見ながら自慰をした。見るだけで触れることはしなかったし、もちろん汚すような真似もしなかった。ただ、今着ているこのジャージの刺繍の「都倉」の文字を見ながら、届くことのない、届けるつもりもない想いを吐き出した。あの時も声は極力出さないようにした。万一に備えて、間違えて隣の都倉のロッカーを開けてしまっただけだ、と言い訳ができるように準備をして。でも、誰かが来るかもしれないから声を出さなかったわけではない。自室どころか家の中に1人で、誰に気付かれる心配のない時でも、同じだった。自分の恋しい相手の名前はいつでも同性で、その名を口にすることがどうしても怖かった。何がそんなに怖かったのか分からない。とにかく、隠すことが癖になっていた。
だから今でも、セックスの時に「和樹」と呼びかけることには、少し、抵抗がある。和樹はその最中こそ、かなり頻繁に「涼矢」と呼ぶ。それは嬉しくて仕方がないのだけれども、呼び返すことには一向に慣れない。
和樹。部活仲間はみんなそんな風に下の名前やあだ名で呼び合っていた。「都倉」と「田崎」とよそよそしく呼び合っていたのは自分たちぐらいだ。和樹の元カノの川島綾乃ですら、部員の真似をして馴れ馴れしく「涼矢」と呼んだ。涼矢としてはそれは不愉快なことだったが、それを拒んで周囲や綾乃に、更には和樹に邪推されるのが嫌で我慢した。彼女は和樹のことは何と呼んでいたのだったか。……そうだ、「カズくん」だ。"彼女"にだけ許された特別な呼称。涼矢は苦々しく綾乃のことを思い出した。
記憶を更に遡る。その綾乃と和樹がつきあいだしたというニュースは、確か柳瀬から聞かされた。柳瀬が綾乃にほのかな想いを寄せていたからだ。といっても、誰が見ても高嶺の花だった彼女のことは、柳瀬も本気で相手をしてもらえるとも思っていなくて、もっぱら涼矢に「今日は川島さんと図書委員で一緒に当番でさ、ちょっとしゃべっちゃった!」といったことを言ってくる、そんな程度の恋心のようではあった。その柳瀬が「ついに都倉とつきあうんだってよ。都倉も水泳部だよな? おまえ知ってたか? いいよなあ、イケメンは。」と悔しさと淋しさを滲ませながら伝えてきた日のことは、今でもはっきりと覚えている。夏休みが終わり、2学期が始まって間もない頃のことだ。
3年生のクラス分けで和樹と同じになったと知った時、誰とその喜びを分かち合えるわけでもなかったが、心から嬉しかった。出席番号順に並ぶ時には隣り合うだろう。クラス対抗の体育祭で和樹を大声で応援することも許されるだろう。卒業アルバムには同じページに載るだろう。そんな些細な事柄を期待して、それだけで幸せだった。幼馴染の柳瀬も同じクラスであることなどはどうでもよかった。
「それにしても、川島さん、近くで見てもホントに美人だな。同じクラスなんてラッキー。」新年度が始まった初日から、柳瀬はそんなことを言っていた。ミスS高と称えられていた川島綾乃のことは、和樹以外の情報には疎い涼矢もさすがに知っていた。涼矢に取ってみれば、確かに美人だとは思ったが、それだけだった。ただ、和樹が「ごく普通のストレート男性」なのは嫌というほど知っていたから、和樹もまた綾乃のような女の子が良いのだろう、同じクラスともなれば急接近するかもしれない、そんな危惧は抱いていた。柳瀬と違って、「都倉和樹」は下級生がファンクラブを結成するほどの人気者で、綾乃だって和樹に好意を持たれるなら悪い気はしないだろう。2人が同じクラスになった時点で、少なくともクラスメートの大半は2人がつきあうのも時間の問題だと思っていた。
そんな2人の交際開始が夏休み明けまでかかったのは、2人ともが自分から告白することに慣れていなかったからで、それ以前から2人でいることは多かった。「ねえ、私たちつきあってるってことで良いんだよね?」と綾乃が言って、和樹がうなずいたのが夏休み明けだった、というだけの話だった。それを綾乃が女友達に言い、そこから一気に噂が広まり、柳瀬に、そして涼矢の耳に届いた。
涼矢は、予想はしていたものの、やはりショックだった。綾乃以前にも彼女がいたのは知っている。ただ、相手が同じ高校の生徒ではなかったので、直接目に触れる機会はなく、涼矢にとっては架空の人物と変わらなかった。それが今回は毎日その姿を目にする綾乃だ。廊下で2人で親し気にしゃべっていたり、待ち合わせて下校したり、そんな光景を目にする度に、胸は痛んだ。でも、仕方のないことだった。
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