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第314話 NOISE(12)

「あれ、森川先生?」 「お疲れさま。」 「どうしたんですか。」 「小嶋先生が急なお休みで、ピンチヒッター。」 「小嶋先生、具合でも?」 「体調が悪いのはお母様みたいです。」 「ああ……。」要介護の小嶋の母親。久家との関係を許さなかったが、痴呆になって笑いかけてくれるようになったという。和樹は久家を見た。森川との会話は聞こえているはずだが、聞こえていないような素振りだ。  それでも一通りの授業を終えて、帰り支度をしていると、久家が和樹に言った。 「都倉先生にもピンチヒッターをお願いするかもしれません。明日以降で出勤できる日があったら、教えてもらえますか?」  和樹は、久家が小嶋のフォローをすることに、一瞬、ドキリとした。そんなことを森川のような「事情を知らない人」の前で言ったらバレてしまうのではないかと。だが、考えるまでもなく、久家のセリフは単なる上司としての指示に過ぎなかった。通常、シフトの指示を出すのは教室長である早坂だが、こんな時には久家も上長として振る舞うようだ。  和樹は手帳を出す。出しながら、ひどく悩んだ。本当は手帳を見なくても分かっている。明日は講義の都合で1コマ目には間に合わないが、2コマ目からなら入れる。金曜日は問題なく入れる。土日も今のところ何の予定もない。いや、違う。本当は金曜の夜からは、涼矢のために空けていたのだ。涼矢が今、部屋で待っているのでなければ、少なくとも明日明後日は出られると即答していたことだろう。  嵐の中、会いに来てくれた涼矢を優先したい気持ちはやまやまだ。だが、小嶋の事情を思えば、むげに断ることもできなかった。  和樹が手帳を広げたまま困っていると、久家は「無理しなくていいですよ。」と穏やかに言ってくれた。 「あっ、いえ……。えっと、明日は厳しいんですけど、金曜日なら。金曜日は、大丈夫です。土曜日も、時間帯によっては……。」今日はほとんど一緒にいられなかった。明日一日ぐらい、涼矢ともう少し長く過ごしたい。日曜日は涼矢が帰る日だから。そんな消去法で出した答えを口にした。 「そうですか。助かります。他の先生方にもお願いしているので、調整して、後ほどまたご連絡します。」 「はい。」  涼矢にどう伝えようかと悩みながら塾を出た。電車に乗り込む時に、今から帰るとメッセージを送った。小走りどころか若干足は重いが、どこにも寄り道せずにアパートまで到着した。鍵を鍵穴に差し込もうとすると、内側からドアが開いた。 「わ。……た、ただいま。」 「おかえり。」  和樹は部屋に入り、夕方の帰宅の時と同じように、手を洗い、うがいをした。冷気をまとった上着はいつの間にか涼矢がハンガーに掛けてくれて、食卓の定位置に座ると、既に食事の支度はすべて整っていた。 「わ、すげえ。」 「あのあとまた煮込んだから、今のほうが味が馴染んで美味しくなってるかも。」そう言いながら涼矢は、新品の粉チーズの、シール状になっている内蓋を開封するのに四苦八苦していた。 「ちょい、貸してみ。」和樹が手を差し伸べた。涼矢が粉チーズを渡すと、和樹はいとも簡単に開けてみせた。「これさ、真上に引っ張ってもダメなんだよ。斜めに、ねじりあげるみたいにするの。」 「へえ……。随分と不親切な仕様だな。」 「だよな。俺も実家で困ってさ、動画で知った。」 「動画?」 「そう、公式動画があんの。開け方の。」 「ネットで説明したって、年寄りとか困るだろうに。」 「年寄りはチーズなんてハイカラなもんは食べないと思ってんじゃないの。」 「そんな馬鹿な。」涼矢は苦笑した。 「涼矢は毎回、今みたいに力づくで開けてたのか。」和樹はミートソースに粉チーズを振った。 「いや、うちはパルミジャーノが常備してあるんで、それをおろして。」 「あら、ハイカラ。」 「佐江子さんの酒の肴だよ。」涼矢もチーズを振る。「まぁいいよ。食おう。ちゃんとタイミング見て、アルデンテにしたんだから。」 「おう。いただきます。」 「いただきます。」  それからしばらく、2人は黙々と食べた。半分以上食べ進めてから、和樹が言った。「もしかしておまえ、全然食ってないの?」 「うん。でも、昼にたくさん食べたし、夕方も、みかん食べたから。あ、みかん、特売だったから……。」 「見りゃ分かる。」キッチンの片隅に、3kgと書かれたみかんの箱がある。「どうしておまえが来ると、かぼすだのみかんだの、柑橘類が大量に……。」 「みかんは包丁使わなくていいし、食べやすいだろ。1人でもあのぐらい食えるよ。ビタミンC。風邪予防。」 「はいはい。に、しても、重かっただろ。」 「車だったから。」 「あそっか。」 「明日も送るよ。どっちにしろ24時間に1度は出し入れしないといけないんだ。」 「なんで?」  涼矢はコインパーキングの料金システムを説明した。24時間までは最大料金が適用されるが、それを超過すると1時間ごとの超過料金がどんどん加算されていって割高になる。 「だからさ、明日からも送っていくよ。でも、せっかくだから遠出もしたくない? 早く帰れる日はないの?」

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