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第315話 NOISE(13)
和樹のフォークを持つ手が止まる。「明日は、今日より遅い。6時頃になる。明後日は、本当だったら3時ぐらいには帰れるんだけど……。その、バイトが入るかもしれない。」涼矢に目を合わせられない。
「金曜って、バイトの日じゃなかったよな?」涼矢の表情が曇る。
「お母さんが体調崩して、面倒見なきゃいけない先生がいて。もう、介護とか受けてる状態のお母さんだから、放っておけないし。その先生の代わりをしないといけない、かもしれない。」
だからって、なんでおまえが。喉元まで出かかったそのセリフを涼矢はなんとかこらえた。そんな事情を聞いて断れる和樹じゃない。
「でも、逆に、回復すれば頼まれないで済むかもしれないし。決まったら連絡もらうことになってる。」
「そっか……。まあ、しょうがないよな。」
「うん。ごめん。」和樹はふと、小嶋と久家のことを涼矢にも話したいと思った。自分たちの道筋の、ひとつの可能性である彼らのことを共有したいと。「あの、さ。ちょっと聞いてほしい話が、ある。」
涼矢は今まさにフォークにからめたパスタを口に運ぼうとしているところで、固まった。宙ぶらりんのパスタだけがゆらゆらしている。
「あ、後でいい。食ってからで。」
「気になる。」
「悪い話じゃないよ。でも、きちんと話したい話だから。」
「……そう。分かった。」
そこからまた無言になった。涼矢も和樹もほぼ同時に食べ終わる。和樹が黙ったまま食器を下げ、洗う。その間に涼矢はコーヒーを淹れた。涼矢がコーヒーに口をつけた時に、皿洗いを終えた和樹もやってきて、元の位置にあぐらをかいた。
「ええと。あの、おまえさ、緊張してるっぽいけど、俺たちのことじゃないんだ。」
和樹の言葉通り、涼矢は緊張していた。まさかこの段階で別れ話でもあるまいとは思ったが、涼矢への不満があるとか、隣人からクレームがついてアパートを追い出されるとか、何かそういった「悪いこと」である可能性は危惧していた。だから「俺たちのことじゃない」という言葉に安堵して、肩の力が抜けた。抜けたおかげで、自分が自覚していた以上に緊張していたことを知った。
「じゃあ、何の話。」
「バイトの話。」
「ああ。別に急にバイト入ったからって、俺、怒ってねえよ?」
「いや、そうじゃなくて。……そうじゃなくもないけど。えっとね、まず、塾に、小嶋先生っていう人がいる。今日休んだ人ね。で、このスーツくれた人。」和樹は吊るされたスーツを指した。
「胃ガンだったって人?」
「そう。それで、もう1人、久家先生という人がいる。すごく優しくて、いろいろ教えてもらってる。」
「うん。」
「で、2人はつきあってる。」
涼矢は真顔になり、和樹を見つめた。「ふうん。いろいろ教わってる優しい人って、女の人なんだ?」スーツをくれた人は当然男性。その人とつきあっていると言うのだから女性。涼矢はそう勘違いをしたようだ。勘違いをした上で、その女性が和樹にちょっかいのひとつもかけているのではないかと気になっている様子だ。
「男だよ。ハゲてて、メタボな。」和樹はあっさりとネタばらしをした。
「……え?」
「えっとだから、小嶋先生と、久家先生は、2人とも男で、おじさん。」小嶋先生、と言う時に、和樹は近くにあったテレビのリモコンをテーブルに置き、久家先生と言いながらエアコンのリモコンをその隣に置いた。そんなことをしながら、「男で、おじさん」という言い回しは変だな、などと考える。「2人とも50歳ぐらい? そこまで行ってないかな? まあ、そのぐらい。もう1人おじさんがいて、それが教室長で、塾の代表。俺を雇った人。」ふたつのリモコンから少し離して、スマホを置く。
「で、このリモコン2人がつきあってる?」
「そう。つきあってるっつか、養子縁組もしてる。」
「おお。」涼矢は俄然、興味津々の顔になった。展覧会の絵画以外に対して、こんな表情を向けているのを見たことがない和樹だった。
「この3人は元々同じ会社にいたみたいで、3人で独立して、塾を作ったらしい。」
「へえ。」
「2人はずっと一緒に暮らしてて、教室長も2人の関係は知ってて、でも、ずっと籍入れたりとかしてなくて。でも、小嶋先生が胃ガンになって、手術とか入院とか、いろいろ手続きが必要で。」
「ああ、身内じゃないとダメ、みたいな?」
「そう。それで養子縁組したのが、2、3年前のことらしい。スーツは教室長が結婚祝いで仕立ててあげたんだって。」
「そんな大事な物をおまえに?」
「うん。誰かに譲ろうとしてたけど、今まで体格が合う人がいなかったからって。あと、この話をしてくれたのも俺だけで、他の非常勤の先生には内緒なんだって。」
「え。」涼矢の顔色が少し変わる。「おまえ、話したの? 塾の人に? 俺たちのこと。」
「それが違うんだよ。俺もさ、正直、なんかバレたのかなって。だからそんな話、俺だけにするのかなって思ったんだけど、そうじゃないみたい。」
「じゃあ、なんでおまえだけに?」
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