329 / 1020

第329話 SMOKE(4)

 涼矢は予想もしなかった言葉に驚いて、体を硬くした。「え? 誰が?」 「小嶋先生のお母さん。」和樹は微動だにしない。 「介護してたって人?」 「そう。」 「ごめん。」和樹は涼矢の胸にくっついたまま、また、呟いた。 「ごめんって、何が。」 「俺、お葬式……お通夜だっけ、それに行かなきゃならなくなった。明日。」 「おまえが?」 「うん。他の先生たちは小嶋先生と久家先生の代わりに授業やんなきゃだし。俺しかいないからって、教室長じきじきに頼まれて。」 「……そっか。」 「でも、単なるバイトなんかが行くの、おかしいよね。」 「そう?」  そこでようやく和樹は顔を上げた。「おかしいと思わない? バイト代も出ないかもしれない。」 「だって……お葬式だろう? バイト代が出るから行く、出ないなら行かないってもんじゃないと思うけど。それに……確か和樹だけなんだろ、その、ナントカ先生たちの養子縁組のこと、知ってるのは。だったら、単なるバイトってだけの関係じゃないと思うし。」 「そう思う?」 「うん。逆に、和樹が納得できないんなら……、バイト代も出ないのになんで自分が行かなくちゃならないんだ、なんて思うんなら、行かないほうがいいと思う。そんな気持ちで行くんじゃ、死んだ人も浮かばれない。」  和樹は無言になり、唇をふるふると震わせながら噛みしめたかと思うと、その大きな両目からぽろぽろと涙が零れてきた。 「ど、どうした。」涼矢が慌てて和樹の肩をつかんだ。「ごめん、言い方きつかったかも。」 「きつくない。俺もそう思う。」泣きながら言ったので、その声は震えていた。「直接は知らない人だけどさ、俺が行っていいなら、行きたい。小嶋先生や久家先生に、俺が、関係なくないって伝えたいんだ。正直、悲しいのかって聞かれたら、よく分かんないけど。」 「うん。」涼矢は優しく、しがみついている和樹の手を外した。「とりあえず、落ち着けよ。今、お茶でも淹れるから。あと、手洗い、うがいもしてないぞ。そんな奴におかえりのチューなんかしてやんないからな。」和樹の気持ちを楽にさせようと、涼矢はそんなことを言う。 「ん。」和樹は洟を少しすすりあげて、涼矢から離れた。バッグを片づけ、上着を脱ぎ、洗面所に行った。  その間に涼矢はお湯を沸かし、マグカップに緑茶のティーバッグをセットした。夕食の支度もできているが、それはひとまず後回しにする。和樹も間もなく戻ってきて、テーブルの定位置に座った。もう泣いてはいない。涼矢はティーバッグを捨て、緑茶の入ったマグカップ2つをテーブルに載せると、すぐに引き返し、今度はみかんを数個抱えて戻ってきて、自分も定位置に座った。 「サンキュ。」和樹は早速みかんを剥き始めた。それを見て涼矢もホッとする。そんな話をしたこともあった。あれは確か、喫茶店のマスターにゲイをカミングアウトした時のことだ。食べられるうちは大丈夫。和樹がそう言った。和樹は外皮を剥くだけで、いちいち白い筋を取ったりはせず、一気に半分ほども口に放り込む。もぐもぐと咀嚼して飲む込むと、「あ。」と呟いた。 「何?」涼矢のほうが緊張気味だった。和樹と亡くなった人との距離感がよく分からない上に、どれほどのショックを受けているのか、今何かを考えているのかは皆目見当つかなかった。 「おかえりのチュー、してもらってない。」和樹は涼矢を見た。 「あ、ああ。」涼矢はそっとキスをした。和樹は自分からそんなことを言った割に、どこかぽやんと上の空だ。キスした後もそれは変化がない。和樹は黙々とみかんを食べ、続いて2個目にも手を伸ばし、それもあっという間に食べ尽くした。3個目に手を伸ばしたところで、涼矢が「すぐ、夕飯だよ。」と言った。 「そっか。」和樹は素直に手を止めて、お茶をすすった。 「大丈夫か?」 「うん。大丈夫。だと思う。」和樹はまたお茶を飲む。涼矢もここまで来てようやく自分のお茶に口をつけた。「俺さ、お葬式って行ったことないんだ。つか、お葬式に行くような間柄の人が死んだことがない。親戚の年寄りは、まだ生きているか、俺が物心つく前に死んじゃってるか、どっちかで。」和樹は一度手に取ってやめたみかんを見つめながら言った。 「そうなんだ。俺も、叔父さんのお葬式ぐらいかな。渉先生の時は、お葬式に連れてってもらえなかったし。」  ああ、そうだ。涼矢は身近な人の死を経験しているんだった。和樹はそのことを思い出した。同時に涼矢にとっての「死」の身近さのことも。「赤の他人なのにな。会ったこともない人なのに、なんでこんなにショックなのかな。初めてだからかな。」 「面識なくたって、多少でも関わりある人が死んだらショックだよ。人が死ぬことに慣れることなんかないと思う。初めても何もないよ。」 「そうか。」 「でも、その亡くなった人、最期まで息子といられて、幸せだったんじゃないかな。」なだめるような、柔らかな言い方だった。涼矢の気遣いは集中力を欠き気味の和樹にも理解できた。 「……。」和樹は思案する。久家たちのことを話した時に、涼矢にきちんと言えなかったこと。言うとするなら今しかない気がした。「本当言うとね、小嶋先生と久家先生、亡くなった両親には、認めてもらえてなかったんだ。」 「え? 同居で、介護してたんだろ?」 「家は二世帯住宅だけど、ずっと交流はなかったみたい。お父さんはだいぶ前に亡くなってて、でも、最期まで許してくれなくて、お母さんも……。でも、お母さんが痴呆になって、息子の顔も忘れて、そうなってからやっと介護のために行き来するようになったって。」  涼矢は絶句していた。想像していたものとは正反対の親子関係。そして、それを和樹が昨日は話さなかった理由も察せられた。――俺は昨日、どんな顔してその話を聞いた? きっと少し嬉しそうにしてた。だって嬉しかったから。和樹の身近に同性カップルとしてうまくやってる"先輩"がいることも、和樹が彼らのようになりたいと言ってくれたことも。でも、それはきっと話の半分で……残りの半分が、今聞いた事実だ。和樹は本当はこっちを話したかったんじゃなかったのか。でも、俺ががっかりするから、そこは話さなかったんだろう。

ともだちにシェアしよう!