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第330話 SMOKE(5)

「お母さん、誰が誰だかもう分かんなくなって。それで初めて、久家先生にも笑ってくれるようになったって。久家先生、嬉しそうに、そう言ってたんだ。」和樹はうつむいた。おそらく涙をこらえている。「なあ、それって、嬉しいことなのかな。そんな風にしてまで、親に認めてもらいたいもんかな。俺、小嶋先生のお母さんのこと、ちょっとさ、ちょっとだけだけど、ムカつくっていうか。もっと早く笑いかけてほしかった。そのぐらいのことしたっていいじゃないかって。なんで自分の息子のこと、自分の息子が好きな人のこと、もっと早く受け容れてくれなかったんだろうって。」和樹の声は小さくて、わずかに震えていたけれど、泣きはしなかった。  涼矢は和樹の手に自分の手を重ねて、軽く握った。「でも、笑ってくれたんだろ。お父さんは間に合わなかったかもしれないけど、お母さんは、最後には。」 「だってもう、痴呆になってて、わけ分かんなくなってて。」 「そうなって、いろんな、常識とか、しがらみとか、意地とか、そういうのから解放された時の気持ちがそうだったんだとしたら、それがお母さんの本心だったかもしれないよ。その、笑いかけてくれた時の気持ちが。」 「そうなのかな。」 「分かんないけどさ。……おまえが言ってたじゃない。死んだ人が何を考えてたかなんて分からないって。だったら生きてる人間が良いように考えてやればいいって。」  和樹はハッとして涼矢を見た。 「俺はそうした。おまえにそう言われて。」 「分かった風なこと言ってたよな、俺。自分に振りかかったことじゃないからそんな無責任なこと、言えたんだ。」 「でも、そのおかげで俺は気楽になったよ。渉先生に会えて良かったって思えた。俺だっていつか死ぬけど、その時、誰かに恨まれたり、後悔されたりするより、俺と会えて良かったなって思われたいよ。」 「お母さん、幸せだったかな。」 「そうじゃない? 最後まで息子がそばにいてくれて、そのパートナーからも大事にされて。」 「そっか……。」 「うん。」涼矢は握っている手ではないほうの手で、和樹の頭を撫でた。「だから、大丈夫だよ。」  和樹は撫でられるに任せているが、涼矢の言葉に少し戸惑いの表情を浮かべる。「大丈夫って、何が?」 「和樹は、自分の親のこと、考えたんだろ? 俺たちも、そういう風に、理解してもらえないままになっちゃうんじゃないかって。でも、大丈夫だよ。」 「なんでそんなこと、言える? 俺、自信なくなってきちゃった。うちの親、涼矢んちみたいに、理路整然としてないからさ。知識もないし、すぐ感情的になるし。話せば分かるってならないかもしれない。そうなったらなったで、俺はもう、仕方ないっつか。親と縁切ったっていいぐらいに、思ってるけど。」 「和樹はそんなことしないよ。」涼矢は微笑んだ。「それに、俺、和樹のこと幸せにするつもりだし、和樹が幸せならきっと、和樹のお父さんもお母さんも幸せだと思うから。そのための努力なら、俺、いくらでもするから。」涼矢はもう一度和樹の頭を撫でた。「やれることは、頑張ってみよう? その、くげ先生? とか、こじま先生も、そう思ってたと思うよ。」  和樹は小さくうなずくと、そのままテーブルに突っ伏した。それから、ハア、と大きなため息をついた。 「まだ何か心配?」 「ううん。今のは、ホッとしたため息。」 「そんならいい。」涼矢は立ち上がった。「メシにする?」 「うん。今日のごはんは何。」 「とても普通の。」 「普通って。」 「鶏の照り焼きと、肉じゃがと、豆腐とわかめの味噌汁と、蕪の浅漬けと、蕪の葉の……なんだろ、ふりかけみたいなの。」 「蕪の葉? ふりかけ?」 「蕪の葉っぱ刻んで、油揚げと、じゃこ入れて炒めたやつ。」 「ああ、これか。」涼矢が持ってきた皿を見る。「何か手伝うことある?」 「いや、あとはもう味噌汁温めるぐらいだから、いいよ。」涼矢はそう言ったが、結局は肉じゃがだって温め直して器に盛ったし、白飯もよそったし、照り焼きにプチトマトを添えもした。それらすべてを涼矢1人でやった。いつもなら、箸や皿を並べる程度だとしても、少しは和樹も手伝う。それをさせなかったのは、気落ちしている和樹に気を使っているのは明らかだったが、和樹は何も言わずに甘えた。そうしたほうが涼矢も気楽だと分かっていたからだ。夏の時には少し歯車の合わないこともあった、そんな些細な気遣いの応酬にも、慣れてきた2人だった。  和樹はふいに、塾での小嶋と久家の振る舞いを思い出した。長年繰り返しているルーチンワークだから、と言ってしまえばそれまでだが、2人の間では暗黙の了解で作業が進むことは、確かによくあった。  小嶋が資料の棚の前で何かを探していると、たまたま通りかかった久家がスッと1冊の資料ファイルを抜き出して小嶋に手渡す、そんな場面を見たこともある。小嶋は、「ああ、これこれ」と言うようにうなずいて席に戻り、久家はそのまま別のフロアに行ってしまった。その間、2人は何一つ会話もしていないのだ。ツーカーの仲と言うのか、あうんの呼吸と言うのか。その時はまだ2人の関係を知らなかったから、随分親しいんだな程度にしか思わなかったが。

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